港大橋|真紅の巨人が立つとき

真っ赤な鉄骨に囲まれた高速道路の橋梁内部。頭上に複雑な鉄骨構造が続き、奥へと伸びる道が力強さを感じさせる。

1970年、大阪。
万博の熱気がまだ街に残っていたころ、一つの巨大な挑戦が始まった。
それが 港大橋だった。

当時としては前例のない規模。
中央径間510メートル、桁下高51メートル。
40,000トン級のコンテナ船が通る航路を跨ぐために、日本の橋梁技術はかつてない試練に立ち向かった。

人々は口を揃えた。
「これは、日本の限界への挑戦だ」と。

目次

軟弱地盤との死闘 ― 海の底に築かれた巨大基礎

建設地は大阪港でもっとも船の往来が多い主航路。
しかも地盤は地表から30メートル下まで軟弱な沖積粘土。
その悪条件を克服するために、世界最大級のニューマチックケーソンが導入された。

40メートル四方、深さ35メートル。
巨大な函体を海底に沈め、ヘドロを海砂に置き換える。
作業員の一人はこう語った。
「まるで海の底に城を築くようやった…」

広島から大阪へ ― 巨大桁が海を渡った日

上部工では日本初となる超高張力鋼HT70・HT80を採用。
100ミリの極厚鋼板が赤く塗られ、次々と積み上がっていく。

そして1974年。
広島で組み立てられた中央径間510メートルの巨大桁が、海を渡り大阪港へと運ばれてきた。

3時間半をかけた一括吊り上げ。
その瞬間、大阪港の空は真紅の鉄骨に覆われた。
全国から集まった技術者が固唾をのんで見守った光景は、まさに日本の橋梁史を塗り替える瞬間だった。

阪神大震災が突きつけた試練と、その後の耐震補強

1995年、阪神大震災。
港大橋は大きく揺さぶられた。

その後の耐震補強で導入された免震・制震技術。
橋桁をスライドさせて力を逃がす革新的なシステムは、以後の長大橋建設に道を拓いた。

半世紀を越えて ― 土木遺産として未来に語りかける橋

大阪湾岸線を走行中、真紅の鉄骨に囲まれた港大橋の内部道路
港大橋の内部を車で走る。真紅のトラス構造に包まれた湾岸線の風景は、巨大建築に飲み込まれるような迫力がある。

2024年、港大橋は土木学会選奨土木遺産に認定された。
完成から半世紀を経てもなお、1日およそ10万台の車を支え続けている。

真紅のトラス。
それはただの鋼鉄ではない。
人々の知恵と勇気、そして汗の結晶だ。

大阪港を見守り続ける「真紅の巨人」。
その姿は、今も未来に語りかけている。る。50年前から変わらず、大阪港を見守り続ける赤い巨人の迫力を、ぜひ体感してほしい。

港大橋の概要

項目詳細
正式名称港大橋(みなとおおはし)
所在地大阪府大阪市港区海岸通3丁目~住之江区南港東9丁目
開通年月日1974年7月15日
橋梁形式3径間ゲルバートラス橋
全長980m
支間割り235m + 510m + 235m
中央径間510m(日本最長、世界第3位)
幅員19.3m
桁下高51m
橋梁高さ81.5m(海面から頂上部まで)
鋼重41,000t
建設費250億円
基礎形式ニューマチックケーソン
構造上下2層のダブルデッキ
路線16号大阪港線、4号湾岸線、5号湾岸線
1日交通量約10万台
特徴真っ赤な塗装(航空法対応)

技術的特徴:

  • 国内初の高張力鋼の大量使用(70キロ級・80キロ級)
  • 軟弱地盤対策として世界最大級のニューマチックケーソン基礎を採用
  • 阪神・淡路大震災後に免震・制震技術を導入

港大橋は大阪港で最も船舶航行量の多い航路をまたぐために建設され、建設当時としては革新的な技術を多数採用した阪神高速初の長大橋として、その後の日本の長大橋建設技術の発展に大きく寄与しました。2024年9月には土木学会選奨土木遺産に認定されている。

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