難波橋 「ライオン橋」の愛称で親しまれる浪華三大橋【大阪市北区・中央区】


Illustration by Hiroki Fujimoto

難波橋【大阪市北区・中央区】

大川の上流から順に、天満橋、中之島の最東端に架かる天神橋、そして難波橋と並ぶ。大阪の交通の要であった浪華三大橋のひとつであり、公儀橋(江戸幕府の管轄で架橋・修復が行われた橋)のひとつ。

〈古代〉

難波橋が架橋された経緯は、明らかではない。奈良時代の天平17年(745年)に行基が架けたものだという記録が残っているが(『元亨釈書』)、真偽は定かではないという。
かつて橋を架けるのは、民衆への布教に努めていた僧侶が中心となって行っていた。大阪では特に、行基による架橋の逸話が多い。行基は和泉国(現在の大阪府南部)の人。法相宗の大本山・薬師寺で学んだ後は、布教とともに社会事業にも力を注ぎ、寺の建立や架橋、堤の建設に取り組んだ。その功績から多くの伝説が残されており、難波橋の架橋に関する記録もそのひとつではないかと見られている。

〈江戸時代〉

難波橋の存在がはっきりするのは、江戸時代の初めに公儀橋に認定されてからである。

大川は中之島によって南北に分かれ、堂島川と土佐堀川になる。現在の難波橋はこの両川をまたいで架かる2本の橋だが、江戸時代には中之島の地形が現在と異なっており、大川が2本の流れに分かれる地点は現在より西にずれていた。そのため、江戸時代の難波橋は川幅の広い大川に架かる一本の長大な橋であった。貞享元年(1684年)の淀川治水工事の後には、難波橋の長さは230mを超えたという。

天神橋の反りは1丈4尺5寸(約4.5m)という急勾配だったが、難波橋の反りも1丈2尺5寸(3.8m)で、こちらもなかなかの急勾配である。これは、船の往来を考慮してのことだ。また、車の往来を制限するためにあえて渡りにくい急勾配にしたとも考えられている。車の往来が橋を傷め、人々が橋の維持管理に苦慮していたことについては、天神橋の項にも書かれているとおりだ。

難波橋の界隈は諸藩の蔵屋敷が立ち並び、人、馬、船が多く行き交っていた。商人たちの盛況ぶりを感じられる町であったことだろう。
一方で、このあたりは行楽地でもあった。夏になると大川沿いは夕涼みをする人々で賑わい、舟遊びをする姿も見られたという。上方落語の「遊山船」「船弁慶」では、橋の上で夕涼みをする人と舟遊びをする人とのかけあいが語られる。川辺には出店も並び、たいそうな賑わいだったそうである。
また、花見や月見、花火見物に格好の場所としても、多くの人を集めていた。「この橋の上より東西の眺望佳景なり、且左右を見めぐらせば十有余橋を眼前にありて浪華無双の奇観なり」(『摂津名所図会大成 』)と記されているように、難波橋からの眺めは見事なものであったらしい。

〈明治時代~〉

難波橋は、明治9年(1876年)に鉄橋化される。この際に中之島の東端が延長され、大川に架かる1本の木橋だった難波橋は、堂島川と土佐堀川に架かる2本の橋となった。先に鉄橋化されたのは北側、堂島川に架かる橋である。
ちなみに延長された中之島の先端部には、樹木や草花が植えられ、公園として整備された。これが、中之島公園の始まりとされている。

明治18年(1885年)の大洪水では、木橋のままだった南側の橋が流失した。上流にある天満橋・天神橋が壊れ、その建材が流れてきて難波橋にぶち当たった。難波橋の南側は、真ん中から4間ばかりがあっという間に流されてしまったという。
この大洪水を受けて、船場から中之島に渡る橋はまったくなくなってしまった。2、3ヶ所で渡し舟が運行されたが、人の往来をさばくのには足りない。そこで、難波橋のあったあたりに船橋を設けることになった。
船橋は、多くの船を並べてつなぎ、その上に板を渡して橋の代わりにするものである。難波橋跡では、上荷船(商船と港の間を往復して荷の積卸し・積込みを行う船)を二十数艘用意して丸太でつなぎ、杉の板を渡して船橋が造られた。船の調達には手間取ったようだが、船橋の設営にかかった時間は4時間ほど。実に手際よく造られたという。
船橋が設けられたのは、大洪水があった7月2日から5日が経った7日のこと。しかし14日には、仮橋の建設が進んだことをうけて撤去されている。
翌年、明治19年(1886年)には、難波橋の南側も鉄橋化される。しかしこの時はまだ完全な鉄橋ではなく、橋柱に鉄材を用いただけのものであった。輸入した建材を用いて架け替えられた天満橋・天神橋に比べると、難波橋の様相は少々見劣りしたかもしれない。

〈現在の難波橋〉

難波橋が現在の姿になったのは大正4年(1915年)、市電事業に伴ってのことだ。
市電の第三期線として計画された堺筋線(大江橋南詰~日本橋三丁目、明治45年開通)について、市電敷設に伴う道路拡幅工事に周辺住民が反対。堺筋近隣の沿道も巻き込んでの論争となったが、結局は堺筋に沿って市電を走らせることで決着した。大川を超えて天神橋筋六丁目に至るルートを延伸する際も、堺筋沿いに敷設することに決定。これを受けて、堺筋の1本西側に架かっていた難波橋は、堺筋に架かる橋として架け替えられることとなった。
一方、中之島公園では公園の整備が進んでいた。そのため難波橋の架け替えは、単なる交通インフラではなく、公園の景観を彩る一部という性質も持っていた。高欄には市章が刻まれ、下工部や照明灯は装飾性が高く、公園に降りるための立派な石造りの階段も設けられた。
渡り初め式は厳粛に営まれ、その後は舞や花火などの催し物で大変な賑わいだったという。


Illustration by Hiroki Fujimoto

装飾性の高い難波橋において、もっとも特徴的なのはライオン像であろう。橋名を記した親柱の上に、阿吽一対の、石造りのライオン像が鎮座している。
彫刻家の天岡均一の作で、高さ3.5m。重さは18tにも及ぶという、重厚な佇まいである。阿吽といえば思い浮かぶのは神社の狛犬で、ふつうは向かって右に阿形(口を開いている方)、左に吽形(口を閉じている方)を配置するものだが、なぜか難波橋ではこれが逆になっている。理由は定かではない。
このライオン像は今も難波橋のシンボルで、「ライオン橋」の愛称で親しまれている。

ちなみにこのライオン、南北両詰に一対ずつで計4体だが、5体目が和歌山にいるという。
幕末期に和歌山で生まれ、北浜で財を成した商人・松井伊助が、故郷に建てた邸宅の庭に飾ったものだという。どういった経緯で伊助がそのライオン像を手に入れたのかは、あいにく分かっていない。

昭和47年(1972年)に難波橋は大規模な補修工事が行われた際には、橋の景観を損なわないよう配慮され、建設当時の佇まいを残した。
また昭和60年(1985年)には、戦時下で失われた照明灯が復元される。この青銅製の華麗な照明灯は、難波橋にレトロな彩を添えている。

〈難波橋概要〉

地下鉄堺筋線北浜駅・京阪本線北浜駅すぐ。
大正4年(1915年)竣工、昭和50年(1975年)架け替え。堂島川と土佐堀川に架かる2本の橋から成り、形式は桁橋(連続桁)およびアーチ橋。橋長189.65m。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

「八百八橋物語」 松村博 松籟社 1984年

「大阪の橋ものがたり」 伊藤純/橋爪節也/船越幹央/八木滋 創元社 2010年

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