常安橋 大商人の名を残す、中之島の橋【大阪市北区・西区】

常安橋【大阪市北区・西区】

心斎橋が心斎によって架けられた橋なら、常安橋は常安によって架けられた橋である。淀屋常安。淀屋橋を架けた豪商・淀屋の初代だ。

〈江戸時代〉

常安橋は江戸時代初期、淀屋常安の先導で進められた中之島開発に伴って建設されたものとされていた。しかし常安が橋を架けるより前からその場所には橋があり、もとは田辺屋橋と呼ばれていたらしい。
田辺屋橋もまた、田辺屋又左衛門(孫の田邊屋五兵衞は、大阪の土佐堀一丁目において独立開業し、合薬「田邊屋振出薬」(たなべや薬)を製造販売)という豪商の手によるものと考えられている。田辺屋又左衛門に関しては、東南アジア諸国と貿易する朱印船を三度も出したという記録が残っている。朱印船を出すには、銀五百貫という莫大な資本金が必要だったというから、いかに田辺屋の商売が繁盛していたかが窺える。しかしそれほどの商人でありながら、田辺屋又左衛門自身についての詳しい記録は残っていない。

田辺屋橋が常安橋に改名されたのは、元禄のころのようだ。元禄16年(1703年)の『公私要覧』には常安橋の名で載っており、宝暦6年(1756年)の『町鑑』では常安橋の名に加えて「世にいうたなべ屋橋也」と記されている。田辺屋橋は俗称で、常安橋が正式名称として扱われていたわけだ。

常安橋のあたりには筑後柳川藩・播磨龍野藩の蔵屋敷が建っていた。常安橋は蔵屋敷の人々も物資の運搬に重宝したようで、維持管理にも携わっていた。
とはいえ常安橋は町橋としては比較的小さく、橋の長さは約67m、幅員は4mほどのものだった。

〈明治以降〉

常安橋は明治に入ってもまだ木橋のままで、明治18年(1885年)の大洪水で流失してしまう。
その後、鉄柱木桁の橋に架け替えられた際には長さ約68m、幅員9.8mと、大幅に拡張された。さらに昭和14年(1939年)、第一次都市計画に伴っての改築では幅員が11.4mにまで広がっている(長さはさほど変わっていない)。

〈現在〉

地盤沈下の影響を受けて高潮対策の改修工事をが必要となり、常安橋は昭和42年~44年(1967~1969年)にかけて、約2m嵩上げする工事を行っている。
それと並行して進められていた新たな都市計画事業により、さらに拡幅。現在、幅員は12.25mある。加えて下流側に、幅員12.3mの新しい橋が架けられた。現在は新旧両方の橋が、大阪市を南北に突っ切る大通りのひとつ、なにわ筋の昼夜絶えない交通を支え続けている。

ちなみに常安町には、大阪府第一番中学校があった。のちに改称し府立大阪中学校となり、堂島浜三丁目に移転して堂島中学校となった。さらに明治35年には北野に転出して府立北野中学校となった。大阪府立北野高等学校の歴史である。この付近はもともと文教地区だった。阪大本部・医学部・歯学部があったことは記憶に新しい。今、大阪市が市立近代美術館の構想を推し進めている。21世紀にふさわしい文教地区がまさに誕生しようとしているのである。

引用:大阪市ホームページより

〈常安橋概要〉

京阪中之島線中之島駅より南へ5分ほど。大阪市北区中之島4丁目・5丁目と西区土佐堀1丁目・2丁目の間を結んでいる。
旧橋(上流側)は昭和4年(1929年)、新橋(下流側)は昭和44年(1969年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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