玉江橋 かつて五重塔を望んだ、中之島に架かる橋【大阪市北区・西区】

玉江橋【大阪市北区・西区】

〈江戸時代〉

玉江橋は元禄のころ、堂島の開発に伴って架けられた堂島五橋のひとつ。もとは堀江橋という名前だった。
堀江橋は、行基が架けたと伝わる橋の名前である。古代・中世のころは、布教のため各地を行脚していた僧侶が架橋にかかわることが多く、特に大阪には行基によって架けられたという橋の逸話が多かった。堂島五橋はこうした伝承などにちなんで、由緒ある名前をつけられている。
しかし元禄11年(1698年)、川村瑞軒によって堀江川が開削され、堀江橋という名の橋が架けられる。そのため堂島川の堀江橋はその名を譲り、玉江橋に改称することになった。

玉江の名の由来は、定かではない。一説では、堀江で見つかった美しい玉を堀川戎神社の御神霊としたことで、その地を玉江と呼ぶようになったという話にちなむとされる。また一説では、古くから万葉集に詠まれてきた玉江(現在の高槻市三島江のあたり)の地名にちなんだともいう。
ただ、江戸時代の玉江橋のあたりは川幅広く、水は澄んで、建ち並ぶ蔵屋敷の門前は見事な松に飾られており、なかなかに景観の良い場所であった。そのため、雅やかなイメージを持つ玉江の地名が冠せられたのかもしれない。

曽根崎が遊郭として栄えるのと対比するように、堂島は蔵屋敷が建ち並ぶ、いわばビジネス街として栄えていく。互いの町を行き来するには、玉江橋が欠かせなかった。
玉江橋の周辺には肥後藩や中津藩、久留米藩の蔵屋敷があった。南詰には、難病平癒のご利益で有名な理宝院という薬師堂があり、縁日には夜店も出て賑わったという。
また玉江橋は、北から橋を渡る際に、ちょうど正面に四天王寺の五重塔が見えるという景観でも有名だった。大阪の北部から四天王寺へお参りに行く人々は、反りのきつい玉江橋を渡り、橋を登るにつれて明らかになっていく五重塔を拝むのが通例だったという。
このころの玉江橋は長さ約90m、幅員4.1mであった。

〈明治以降〉

明治18年(1885年)の大洪水で流失した後、玉江橋は鉄柱木桁の橋に架け替えられる。この時幅員8.8mにまで拡幅されたが、今度は明治42年(1909年)の大火災「天満焼け」で焼失した。
中之島の橋の多くは、堂島川側、土佐堀川側が一直線の道でつながっていなかったが、玉江橋・常安橋は江戸時代から対になっていたようである。この通りは明治に入ってからは、商店街として賑わった。
昭和4年(1929年)、第一次都市計画事業による架け替えで、玉江橋は本格的な近代橋になる。その後、地盤沈下対策で昭和40年~42年(1965~1967年)にかけて嵩上げ工事。さらに道路の拡幅工事に伴って下流側に新たに橋が架けられ、現在の形となった。上流側が南向き車線、下流側が北向き車線で、2本でひとつの橋となっている。
大阪市内はいくつもの高層ビルが林立し、あいにく玉江橋の上に立っても、四天王寺の五重塔は見えない。

〈玉江概要〉

京阪中之島線中之島駅よりすぐ。
旧橋(上流側)は昭和4年(1929年)、新橋(下流側)は昭和44年(1969年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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