安治川橋【大阪市西区】
安治川橋(磁石橋)(大阪市立中央図書館所蔵)所収
大阪には昔から川が多く、水運が物流を支え、商都大阪の発展を支えてきた。
すっかり大都市として発展した現在の大阪の街中では、船が荷物を運んでいる様子なんて見る機会はないけれど、市の西側、あらゆる川の下流域に行くと、なるほど今でも水運は盛んなんだなと思う景色を見ることができる。
安治川沿いを下流に向かっていくと、だんだん住宅がまばらになって、工場や倉庫が増えてくる。
まるきり箱みたいな形の建物がずどん、ずどんと建ち並び、ごうごうと行き交うのはトラックばかり。街中とは、ずいぶん雰囲気が違う。
JRゆめ咲線は、まさしく安治川を下流に向かって走っているので、車窓の景色を眺めているとこの変化がよくわかる。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行くときに、西九条駅で乗り換える路線だ。街中からどんどん工業地帯に入っていって、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン駅でいきなりにぎやかさと華やかさが爆発する。その落差は結構すごい。
話が逸れたが、安治川だ。違う、安治川橋だ。
安治川橋は、今はない。そもそも安治川には、橋が2本しか架かっていない。うち1本(天保山大橋)は高速道路の一部で、もう1本(安治川大橋)は歩行者も渡れるけれど、たいそう高いところにあるので渡るのが結構しんどい。
たぶん橋のてっぺんに行くだけで5分はかかる。
高所恐怖症の人は渡れないんじゃないだろうか。ついでに言うと海風はきついし、トラックがばんばん走るから結構揺れる。日常的に使い勝手のいい橋ではない。
なんで安治川はそんなに橋が少なくて、しかも渡りにくいのか?
話が最初に戻るけれども、理由は水運だ。船が行き来するには橋があると邪魔で、架けるにしても、船がぶつからないよう橋桁を高くしないといけない。
そういうわけで、安治川はとても渡りにくく、それがつまりは今でも水運が盛んだという証でもある。
……「安治川橋」がタイトルのくせに、ちっとも安治川橋の話にならない。でもまだ川の話は続く。だって橋と川は切っても切れない関係なので。
川がないと橋を架ける必要はないわけで、安治川は人工的に作られた運河だから、安治川橋の話をしようと思ったらまずは安治川の話をしないと始まらない。
ということで、ざっと安治川の歴史を見てみよう。
〈江戸時代〉
安治川橋(大阪市立中央図書館所蔵)所収
川が多い大阪は、昔から水難に悩まされてきた。
今は大川と呼ばれている、桜ノ宮のあたりを通って中之島にぶち当たり、堂島川と土佐堀川に分かれていくこの流れが、かつては淀川の本流だった。
淀川は、大阪一の大河。それが町のど真ん中を突っ切っていたわけだから、氾濫しようものならえらいことになる。
なので大阪の町人は「何とかしとくんなはれ」と幕府をせっつき、天和元年(1681年)に老中・稲葉正休らが治水計画を練るために現地視察にやってきた。
その一行に加わったのが、伊勢生まれの商人・河村瑞軒。大阪の治水工事を引っ張っていくことになる人物だ。
当時は淀川だけでなく、大和川のつけ替えを望む声も近隣住民から上がっていた。
けれどこの視察の際には大和川はいったん置いておかれ、淀川下流域の水の流れをよくすることを優先。堂島川の浚渫と、九条島を掘り割って新しい水路を通すことになった。
島を、掘って、割る。どう考えたって大がかりだ。江戸時代には重機なんてないわけだし。しかも九条島は低湿地で、水の処理が大変だった。
河道予定地の真ん中に幅約15メートルの溝を掘って湧き水を集め、島の西の端ではたくさんの水車を並べてひっきりなしに排水をして、そうしながら開削を進めていった。
貞享元年(1684年)2月に始まったこの大工事は、なんとたった20日間で完了したらしい。ホンマか? と思うけど、記録が正しければホンマである。
新しくつくられた川は、長さ3キロメートル、幅約90メートル。
これまで伝法川を迂回して上流へ向かっていた船がこの新川を利用するようになると、沿岸地域から中之島周辺は大いに賑わった。
もともとこの新川開削は、治水より沿岸部の開発に重きが置かれていた。つまり、洪水対策としては十分ではなかったわけだ。
それで結局安治川橋は洪水で壊されることになるわけだけど、それはまた後でお話ししよう。
「安けく治むる」という意味で安治川と名付けられたのは、開削から14年経った元禄11年(1698年)。
ずいぶん名無しの期間が長いが、その間はなんと呼ばれていたのだろう。
同じ年に両岸の開発も完了し、富島新地や古川新地が誕生した。
現在でいうと西区川口のあたり。堂島川と土佐堀川が合わさって安治川になるとば口のところだ。
安治川橋が架けられたのも同じく元禄11年なので、新地の開発に合わせて建設されたものらしい。
さあ、やっと安治川橋の話だ。
橋の長さは約78メートル、幅員4.5メートル。『摂津名所図会』などを見ると、安治川橋はゆるやかなアーチを描く反り橋だ。これは別に景観に配慮したわけではなく、実用性を考慮してのこと。
最初の方で述べているように、橋を高くしておかないと船が通れないからだ。それでもさすがに、外海を航行するような高いマストの船は安治川橋の下を通れなかったので、下流に係留されていたようだけれど。
そんな船が通れるほどに高い橋は、人力だけでは作れなかったのだろう。木橋だと、強度の問題だってあるだろうし。
木橋は傷むのが早いし、洪水や火事の被害もてきめんに受ける。
だから頻繁に手をかける必要があって、そうした修繕費は近隣の住民が工面していた。
幕府が直接管理する公儀橋でも、日々の手入れは住民負担だったというから、安治川橋みたいな町橋はすべてがまるっと町人任せである。
それでも安治川橋は長く維持され続けたから、なくてはならない橋だったのだろう。
さて、また話は橋からそれる。すぐに戻るので安心してほしい。
堂島川と土佐堀川が合わさって安治川になると言ったけれど、同じ堂島川+土佐堀川のレシピでできあがる川がもうひとつある。木津川だ。
このもろもろの川の合流地点、安治川と木津川に挟まれたところが川口という町で、諸国から船が集まるので船具屋などが軒を連ね、にぎわっていた。
幕府は早くからこの地を重視していて、元和6年(1620年)には川口御船手(船手奉行)という役所を設けている。
役目は官船の管理や海岸部の警備、川口に出入りする船の監視など。
朝鮮や琉球から修好使節が来朝したときには、奉行屋敷を休憩所にして接待したという。
そういう人の行き来が多く、外に開かれた土地柄だったので、幕末のころに川口は外国人居留地の候補地とされ、幕府によって準備が進められていた。
明治政府もこれを引き継ぎ、明治元年(1868年)7月にこの土地は外国人に競売にかけられる。
そうして川口は洋館が建ち並ぶ、大阪の文明開化の拠点になった。
〈明治時代〉
この川口居留地から安治川を渡る橋として、明治6年(1873年)8月に安治川橋は架け替えられた。
橋の長さは約82メートル、幅員は約5メートルと規模はそう変わらないが、場所が江戸時代よりやや上流にずれた。
それより何より、旋回橋になったというのが大きな違いだ。
旋回橋で有名なのは、天橋立の廻旋橋だろうか。橋の真ん中が可動式になっていて、ぐるりと90度回るのだ。
橋が途切れてしまうわけだから人は渡れなくなるけれど、船は橋にぶつかる心配なく航行できる。
船の邪魔になるから橋を高くしないといけない? でも反り橋は渡るのしんどいでしょう。だったら邪魔なときだけ橋をどかしちゃえばいいじゃない。誰かがそう言ったかどうかは知らないが、要するにそういうことだ。橋を回すと、幅5メートルの水路が開けた。
旋回橋を建設できたのは、西欧から輸入された建材と技術のおかげだ。
8径間のうち6径間はごく普通の平たい木橋で、可動部分は2径間。木橋部分の橋脚が鋳鉄製のスクリューパイルなのに対し、可動部分は石を積んだ円形橋脚で、この上に旋回機構が設置されていた。
桁も高欄も輸入品の鉄製で、両方の高欄の中央には角柱が建ち、二条のステイがピンと張られていた。
これは斜張橋……天保山大橋を想像してもらうといい。
角柱の上にはランプが置かれ、夜には船の目印にもなった。
橋がくっついたり離れたりする様子を見て、人々は安治川橋のことを「磁石橋」と呼んでいたらしい。
『浪花安治川口新橋之景』には、磁石のN極とN極よろしく離れていく、旋回中の安治川橋の様子が描かれている。
切り離された橋の真ん中に立っている人も何人かいるのだけれど、遊園地なんてなかった当時の人々にしてみれば、なかなかのアトラクションだったんじゃないだろうか。
安治川橋は日本初の旋回橋として注目を集めたけれど、あいにくその一生は約12年と短かった。理由は洪水。
木橋と違って丈夫につくられていた安治川橋自身が濁流にのまれて流されることはなかったものの、安全のためにやむなく爆破されたのだ。
明治18年(1885年)の大洪水は、淀川に架かる橋を上流から次々になぎ倒していった。
中之島界隈の橋はほぼ全滅で、堂島川に架かる大江橋や渡辺橋などの流木材が安治川橋まで流れてきた。
でも安治川橋は、木材が激突したくらいでは壊れない。木材は安治川橋に引っかかり、それが積み重なって川の流れをせき止める。
すると水かさはどんどん増して、両岸の市街地にあふれそうなほどになった。ここままでは被害が拡大する。じゃあどうするか。
安治川橋をわざと壊して、引っかかっている木材を流してしまうしかない。
そういうわけで安治川橋は、7月4日から5日にかけて、軍隊によってダイナマイトで少しずつ切断された。
爆破から2週間足らず、同月17日には仮橋が完成した。
その後は木橋として再建されたようで、旋回橋が復活することはなかった。
つまり、安治川橋より上流へ船が入り込むこともなくなったようだ。
安治川は明治期の地図には記載があるが、大正に入るとその姿を消す。
いつごろ撤去されたかは定かではないけれど、少なくとも川口居留地が存続していた明治33年(1900年)ごろまでは、橋も存続していたのではないかと考えられている。
ちなみに川口居留地は、商売の場としては成功しなかった。安治川の上流にあったので大型船が入ってこれず、より貿易に適した神戸に外国商人たちが移っていってしまったそうだ。
その後はキリスト教関係者が入居し、教会や学校が建てられた。日本聖公会川口基督教会は、数少ない居留地時代の名残である。
〈現在〉
明治末期(推定)に安治川橋が撤去された後、再建されることがなかったのは、それだけ安治川が水運で栄えていたということでもある。
しかし港があるのなら人の行き来もあるわけで、やっぱり川を渡る手段はほしい。
そこで橋に代わって考えられたのが、河底トンネルの建設だった。
海底トンネルならともかく、河底トンネルというのはあまり聞かない。
旋回橋といい、安治川はなぜだか珍しいものに縁がある川らしい。
第二次都市計画事業のひとつとして建設が始まった安治川河底トンネルは、約10年の月日をかけて昭和19年(1944年)9月に完成した。
考えてみたら、戦時中である。よく工事が中断されることなく、完成までこぎつけたものだ。
トンネルは車道2車線+歩道で、有効幅員は11.4メートル。歩行者・車それぞれが専用のエレベーターで地下に降り、向こう岸でまたエレベーターに乗って地上に出るというつくりだ。
トンネル部分をあらかじめ地上でつくり、両端を塞いで水が入り込まないようにして水に沈める、沈埋工法という技術でつくられていて、それもまた当時は画期的な工事だったので注目を集めたらしい。
この安治川トンネルは、今もバリバリの現役だ。どのくらいバリバリかというと、通勤通学の時間帯にはエレベーター前に行列ができるくらい。
自転車7、8台と歩行者が5人くらい一度に乗れる大きなエレベーターだけれども、ラッシュ時にはそれでも足りないくらいなのだ(それ以外の時間は空いている。でも、完全に往来が絶えるということもない)。
トンネル前に着いてすぐエレベーターに乗れると思ってはいけない。2回は乗り逃す覚悟で、遅刻しないよう家を出る時間を調整したほうがいい。
2年近く安治川トンネルを使って通勤していた私が言うのだから間違いない。
なお現在、車は通れない。排ガスの問題などで通行禁止になったらしいが、単純に考えて、車ならエレベーター待ちしてトンネルを通るより、迂回したほうが早い気がする。
車用のエレベーターは残っているものの封鎖されていて、現在のトンネルは歩行者専用の細いものだ。
人がすれ違えるくらいの幅しかないので、前を行く人を追い抜くのは難しい。まあ追い抜いたところで、エレベーターが来ていないと上がれないので(階段はあるけれど)、トンネルの中では行儀良く、一列に並んで歩くように。
ついでに言うと、自転車も押して歩くこと。わざわざ乗るほどでもない、80メートルほどの短いトンネルだ。
〈安治川橋概要〉
かつて安治川橋がかかっていたのは、大阪市西区川口のあたり。地下鉄中央線阿波座駅より西、木津川を渡った向こうの一帯だ。川口を突っ切って北西に進むと、安治川に行き当たる。
安治川トンネルはやや離れており、最寄りはJR環状線、阪神なんば線西九条駅。南へ3分ほど行ったところにエレベーターの入り口がある。
〈参考資料〉
「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年