今橋 かつて、金融街を支えた橋【大阪市中央区】

今橋【大阪市中央区】

中之島の南側を流れる川は土佐堀川といい、その川とほぼ平行して走る大通りを土佐堀通という。天満橋から土佐堀までを結んでいるので、ちょうど中之島の南の対岸を走る通りだ。
土佐堀通りは中之島の東端、天神橋を超えたところで右前方にカーブする。カーブした先にあるのが葭屋橋、カーブせず直進した先にあるのが今橋だ。ちょうどYの字になっている。
大通りの土佐堀通に架かる葭屋橋に比べて、今橋は小さく、人通りも少ない。けれどなかなかに歴史は古く、豊臣のころからこの場所に架かっていたらしい。

〈江戸時代〉

大坂の陣の絵図に今橋の名前が記されていることから、豊臣時代に存在していたことは確かだが、具体的にいつごろ架けられたのかはわかっていない。ただ、橋の東側は京街道につながっていたので、早くから開けていた土地だと思われる。
橋の西側は北浜で、昔は地名の通り浜だった。『摂津名所図会大成』によれば、元和・寛永のころ(1615〜1643年)まで、今橋の南側にしか人は住んでおらず、北側には浜が広がっていた。それで北浜と呼ばれ、様々な物資が集まる一大市場だったという。やがて北浜にも家が建つようになると、東横堀川を挟んだ東西の行き来が不便だということで橋が架けられ、新しい橋だから今橋と名前がついたという。
大坂の陣は冬が慶長19年(1614年)、夏が元和元年(1615年)。どうやら今橋は戦の折になくなり、しばらく再建されなかったものらしい。

今橋の筋道には大両替商が軒を連ねていた。特に橋の近くの一丁目には平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛という豪商の屋敷が向かい合わせに建っており、「天五に平五、十兵衛横丁」といって有名だったという。また二丁目は、鴻池屋善右衛門が両替屋を開いて以来、鴻池の拠点として栄えた。
寛保3年(1743年)には金相場会所が、翌年の延享元年(1744年)には俵物会所が設けられ、俵物会所では長崎貿易の品をはじめとした北前俵物が扱われた。

このころ、今橋の規模は橋の長さ75.8メートル、幅員5.5メートル。町橋としては比較的大きいほうであった。
ただ、町中ゆえに火災の被害に遭いやすく、宝永5年(1708年)の道修町焼、享保9年(1724年)の妙智焼、天保8年(1837年)の大塩焼など、大火のたびに焼け落ちては、架け替えられた。

〈明治以降〉

明治になって金融制度が変わると、北浜の両替商は銀行を設立したり、仲買商に転業したりした。もちろん没落した家もあっただろうが、北浜は相変わらず金融の町だった。金相場会所も、明治11年(1878年)に証券取引所に衣替えしている。

明治14年(1881年)には、今橋は鉄杭木桁の橋になっていたようである。橋の規模は江戸時代とほとんど変わらなかった。

明治末期になって北浜に市電が通ると、人の往来はそちらに集中し、今橋界隈は人通りが少なくなっていった。そのため橋の架け替えも遅れ、鉄橋化されたのは大正13年(1924年)のこと。この時、橋の長さは70.4メートル、幅員8.4メートル。当初は鋳物製の立派な高欄や照明灯がつけられていたが、戦時下に供出されてなくなってしまった。

〈現在〉

現在の橋は平成6年に架け替えられたもので、かなり新しい部類に入る。
シンプルなデザインの平たい橋だが、高欄や照明灯は、大正13年(1924年)当時のものを模しており、レトロな風合いを見せている。

〈概要〉

地下鉄堺筋線・京阪本線北浜駅から約3分。
平成6年(1994年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

「大阪を古地図で歩く本」 ロム・インターナショナル編 河出書房新社 2016年

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