弁天橋 環状線と並走する、大阪城とOBPをつなぐ橋【大阪市中央区】

弁天橋【大阪市中央区】

大阪ビジネスパークのある場所は、もともと弁天島といった。寝屋川と平野川(現在の第二寝屋川)に挟まれた三角地帯で、江戸時代に弁財天の祠があったから弁天島と呼ばれ、のちには弁天町と呼ばれた。今も大阪ビジネスパークの西の端には弁天抽水所というのがあって、かつての地名の名残をとどめている。
弁天島の橋だから、弁天橋。大阪城側・大阪城公園駅と、大阪ビジネスパーク側・いずみホールをつなぐ橋である。あまり人通りは多くないが、この橋がないと大阪ビジネスパークヘのアクセスが一気に不便になるので、欠かせない。

〈大正期〉

弁天橋が架かっている川は第二寝屋川というが、昔は平野川と呼ばれていた。
平野川は改修工事を経て、第二寝屋川と名前を変えた。第二寝屋川は下流で猫間川と合流して、寝屋川に流れ込む。この一帯は軍が所有する土地だったので、一般人が近づくことはほとんどなかった。
ちなみに猫間川というのは、阿倍野区から生野区、東成区に至り、ほぼJR環状線に沿って北上して第二寝屋川へと注いでいた。百済川に対して高麗川(こまがわ)と呼ばれていたのが、鈍って猫間川になったという説がある。猫は特に関係なく、とうに埋め立てられて今はない。
第二寝屋川の南側(大阪城側)は杉山町、北側(大阪ビジネスパーク側)は弁天町といって、このふたつをつなぐのは鴫野橋しかなかった(現在は同じ場所に、新鴫野橋という橋が架かっている)。しかし軍が建てた大阪砲兵工廠の拡張に伴って、新たに橋が架けられる。これが弁天橋で、明治末期から大正にかかるころに建設されたと思われるが、何せ軍の敷地内でのことなので、詳細はわからない。

〈戦後〉

大阪砲兵工廠は、第二次世界大戦が終わるその前日、昭和20年(1945年)8月14日の京橋空襲で壊滅的な被害を受ける。戦後しばらくは廃墟として放置され、ここからスクラップを非合法に運び出す人は少なくなかった。アパッチ族と呼ばれた彼らについては、開高健の『日本三文オペラ』に詳しい。弁天町に集落を構えたアパッチ族たちが大阪砲兵工廠跡へ侵入するルートのひとつとして、弁天橋があげられている。もっとも、守衛と警官がいるので使いにくいルートだったようだけれど。
この橋は、昭和30年代の地図には描かれていない。第二寝屋川は昭和29年(1954年)から昭和44年(1969年)にかけて開削工事が行われており、その際に撤去されたものと考えられている。

〈現在〉

現在の弁天橋が完成したのは、昭和51年(1976年)。環状線に沿って新しい都市計画道路が建設されるのに伴って架けられた。橋の長さは66.4メートル、幅員18メートル。もとの場所よりやや上流にずれて、環状線のすぐ西側に架かっている。かつてはこの場所に猫間川が流れ込んでいた。
ちなみに、この時新しく設けられた都市計画道路は都島阿倍野線といって、現在の玉造筋にあたる。都島まで至っていないと思うのだが、当初はもっと北まで伸ばす計画だったのだろうか。

 

〈弁天橋概要〉

JR環状線大阪城公園駅からすぐ。
昭和51年(1976年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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