新鴫野橋 城に、軍に囲われ続けてきた、町人からは遠い橋【大阪市中央区】

新鴫野橋【大阪市中央区】

新鴫野橋というのだから鴫野にあるのだろう、鴫野橋もあるのだろうと思うけれど、半分ハズレ。新鴫野橋は、城見にある。大阪城と大阪ビジネスパークをつなぐ橋、と言ったほうがイメージしやすいか。鴫野橋は鴫野と新喜多をつなぐ橋で、ちゃんと鴫野にある。
ところが新鴫野橋の場所には、昔は鴫野橋が架かっていた。かつて城見に鴫野橋があり、現在は新鴫野橋が架かっていて、鴫野橋は場所を変えて鴫野にある。こんがらがってきた。

〈江戸時代〉

そもそもあったのは、鴫野橋である。
場所は、現在の新鴫野橋のあたり。第二寝屋川に架かっており、今は大阪城と大阪ビジネスパークの境目だが、昔は大坂城の場内だった。そのため公の性質がきわめて強く、町人が渡ることはほとんどなかっただろうと思われる。
大坂城内の橋だけれど、豊臣時代にはなかったらしい。大坂冬の陣における今福・鴫野の戦いで、城方はいくつかの仮橋を設置したようで、その中のひとつが鴫野橋の前身になったのではないか、と考えられている。

江戸時代になって大和川と、その支流である平野川の護岸工事、それに伴う北の曲輪(三の丸)の整備が行われた際、橋が必要となって鴫野橋が架けられたと考えられる。
寛永のころ(1624〜1644年)の『大坂御城并町中之図』には、鴫野橋の場所に橋が描かれており、鷺嶋橋と書かれている。つまり鴫野橋はもともと、鷺嶋橋と呼ばれていたらしい。
鷺嶋橋 → 鴫野橋 → 新鴫野橋
いったん整理すると、こういうことだ。
鷺嶋橋からは鴫野村に至る道が伸びている。また、鷺嶋、のちの弁天島、現在の大阪ビジネスパークのあたりには「塩硝」の文字が見える。塩硝とは硝酸カリウムのことで、黒色火薬の原料になる。どうやら整備はまだ不十分だったものの、幕府の施設が作られ始めていた、ということらしい。
その後、鴫野橋のあたりには京橋口御定番下屋敷がつくられた。定番(じょうばん)とは城の警備を担当する幕府の役職で、大坂定番は京橋口(北西の門で、大手前に通じる)や玉造口(南東の門)の警備に当たっていた。また、下屋敷(しもやしき)というのは郊外に構える別邸のこと。大坂城内で、役人の住まいがあるとなれば、一般人が近づく機会はほぼなく、鴫野橋は役人だけが利用する橋となった。

鴫野橋は、幕府が直接管理する公儀橋のひとつである。
大阪の橋のほとんどは町人が自ら架け、維持管理をしていた町橋で、特別に重要な橋12本だけが公儀橋に指定され、幕府の管理下に置かれていた。架け換えなどの修繕費は大坂城の金藏から支出し、畿内一円から請負人を募って工事を行っていたという。ところが明和4年(1767年)に、塚口屋七兵衛という人が公儀橋の修繕を請け負わせてほしいと、幕府にある提案をする。それは旅籠屋の株を貸して賃料を徴収し、それを修繕費に当てるというもので、金藏からの支出を減らせるなら願ったり、と思ったのかどうか、幕府は塚口屋の提案を受け入れた。けれど、鴫野橋の修繕だけは任せなかった。鴫野橋は町人が渡る橋ではなかったからだろう。
渡る人が限られていたからか、鴫野橋は決して大きなものではなかった。他の公儀橋は交通の要であるからこそ公儀橋に指定されたわけで、人の往来が多いぶん橋も大きい。天神橋や高麗橋の幅員は8メートル近くあったし、難波橋は約7メートル、農人橋は約6メートルという規模だった。けれど鴫野橋の幅員は、2.7メートル。さらに公儀橋の証である擬宝珠もつけられていなかったらしい。
町橋が大半を占める大阪八百八橋の中で公儀橋は特殊な存在だが、その中でもさらに鴫野橋は特殊だったようである。

〈明治以降〉

そんな鴫野橋のポジションは、明治に入っても変わらない。
弁天島(現在の大阪ビジネスパーク)は一時鴫野村に編入されたが、すぐに軍の用地となる。弁天島に架かる鴫野橋も軍の管理下に置かれることとなり、相変わらず一般人が利用することのない橋だったようだ。また、橋に関する記録も十分には残っておらず、いつごろ鉄橋化されたのかも正確にはわかっていない。

しかし、さて、現在の橋というのは新鴫野橋である。どこで鴫野橋が新鴫野橋に取って代わったのだろう。
これまで話してきたように、鴫野橋は町人からは縁遠い橋だった。明治に入って軍の管理下に置かれるとますます人々の暮らしからは遠ざかり、記憶からも薄れていったのだろう。だから寝屋川に新しく橋をかけた時、かつてあった公儀橋を偲んで「鴫野橋」と名付けた。昔の橋や地名にちなんで橋の名前を決めるというのは昔からされてきたことで、たとえば長柄橋や渡辺橋、田蓑橋や玉江橋などがそうだ。「鴫野橋」の命名も、そうした昔を懐かしんでのことだったと思われる。
しかし戦後になって軍の用地が大阪市に引き継がれると、市はその用地内に架かっている橋に「新鴫野橋」と名前をつけた。だってもう他のところに「鴫野橋」があるのだから仕方ない。どちらかといえば鴫野に架かる「鴫野橋」の方が「新」なのだけど。
ここで名前がスライドしてしまい、城見にある元・鴫野橋が現・新鴫野橋で、鴫野にある新しい方の橋が鴫野橋という現状になったわけだ。いいかげん鴫野がゲシュタルト崩壊してきた。
まあ、城に、軍に囲われ続けてきた鴫野橋が、町の人々にも利用される橋として新しく生まれ変わったということで、「新鴫野橋」でもいいんじゃないか。これは書き手の勝手な解釈である。

〈現在〉

鴫野橋のあたりは軍の用地だったわけだが、具体的に言うと大阪砲兵工廠が建っていた。簡単に言えば兵器工場である。そのため空襲の標的となり、終戦直前の昭和20年(1945年)8月14日の京橋空襲で壊滅的な被害を受けた。この時の被害は甚大で、慰霊碑がJR京橋駅南口の近くに建っている。
戦後はしばらく更地のまま放置されていたが、1960年代に入って再開発計画が動き出し、そうして建設されたのが大阪ビジネスパークだ。高層ビルが林立し、ビジネスマンたちが闊歩する一方で、大阪城・大阪城ホールにほど近いから観光客の姿も見かける。オフィスだけでなく飲食店などのお店もあるので、地元民もしばしば訪れる。
とはいえ、大阪ビジネスパークから大阪城に行くには大阪城新橋の方が近いので、新鴫野橋を渡る人はあまり多いとはいえない。現在の橋は昭和63年(1988年)に架け替えられたもので、擬宝珠が取り付けられている。かつて公儀橋だったころにはなかった、公儀橋の象徴だ。道行く人はあまり気にしていないかもしれないが、こんな風に誰かの手によって、橋の歴史は丁寧に紡がれ続けている。

〈概要〉

最寄駅は地下鉄長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅。徒歩3分ほど。大阪ビジネスパークの西の端、昔風に言えば弁天島の西端にかかっている。
昭和63年(1988年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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