農人橋 ジャンクションと橋がおりなす、都市の景観【大阪市中央区】

農人橋【大阪市中央区】

のうにんばし、と読む。田んぼの中にありそうな名前の橋だが、実際は大都会・大阪のど真ん中に建っている。この橋の景観は都会でしか見られないだろうありさまで、いささか情緒には欠けるものの、ちょっとおもしろい。大阪弁で言えば「けったいな」というところだろうか。
橋というのは下は水、上は空で、都会のど真ん中といえど開放感をおぼえる場所である。だから中之島は都会の中のオアシスであり、そこに架かる橋は散歩道として、趣ある景観として親しまれているわけだ。けれど農人橋にそんな開放感はない。なんせ真上に高速道路が走っている。そもそも農人橋が架かる東横堀川自体が、高速道路に沿うようにその真下を流れている川なのだ。いや、高速道路が川に沿って建設されたというのが正しいのだけれども。
だから農人橋は、いつもなんとなく薄暗くて、車の音がやかましい。橋らしさには欠けるものの、そのごちゃごちゃした感じが大阪らしいような気もする。

〈江戸時代〉

『摂津名所図会大成』によると、農人橋は昔から農民たちが田畑へ行くために用いていた土橋のようなものだったという。
農人橋の一帯は大阪城の南端に近く、豊臣の時代から武家屋敷や町家が建ち並んでいた。一説によれば、安国寺恵瓊の屋敷もあったという。一方で、船場のあたりにはまだ田畑が多かった。そのため農人橋は、船場方面の田畑へ向かう農民たちが主に利用していたということらしい。
しかし寛永11年(1634年)に地子銀(宅地税)免除のおふれが出てからは、船場のほうでも町家が一気に増え、栄えていった。それに伴い橋も立派な造りとなり、公儀橋に指定されるほど重要なものになる。

江戸時代の農人橋の橋の長さは53mほど、幅員は5.8m。
農人橋が架かる東横堀川にはいくつもの橋が架かっていて、明暦3年(1657年)には10本を数えた。江戸後期には13本にまで増えている。
公儀橋といえど、日常の手入れは橋の近隣に住む人々が担っていた。橋の名にふさわしく
万石通(玄米と籾を選別する道具)や竜骨車(水を組み上げて田んぼに注ぐ道具)など、農具を扱う店が多かったという。

〈明治以降〉

鉄柱の橋に架け替えられたのはやや遅く、明治も半ばごろになってからのことだ。
本格的に鉄橋化されたのは、第一次都市計画による。大正15(1926年)10月に完成した鉄筋コンクリート製のアーチ橋は、約40mと江戸時代より短くなった。一方で幅員は11.3mと、大幅に拡幅されている。

〈現在〉

昭和44年(1969年)、中央大通の建設に伴って農人橋は架け替えられ、現在の姿になった。大通を挟んで幅員18mの橋が2本架けられている。
かつては交通の要衝として公儀橋に指定されていただけあって、現在も農人橋の交通量は甚だしい。御堂筋が南北の大動脈なら、中央大通は東西の大動脈だ。加えて頭上には、高速道路。トラックが駆け抜けると橋が揺れ、東横堀川の水面は街灯の光をゆらゆらと反射する。
のんびり散歩をするには向かないが、なかなかない風景ではあるので一見の価値あり、だと思う。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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