古川橋 新地として開発された町を支えた橋々【大阪市西区】

古川橋【大阪市西区】

京阪電車に古川橋という駅があるけれど、それとは関係ない。大阪市内にかつてあった橋のことで、古川に架かっていたから古川橋といったらしい。その古川も今はない。

〈江戸時代〉

大阪には昔から川が多く、そのおかげで水運が発達し、商売が繁盛したのだけれど、その一方では水難に悩まされ続けてきた。

大阪一の大河である淀川は今、大阪市の北部を流れている。けれど昔は市内の中心部を流れていて(当時は市ではなかったが)、つまり氾濫でもしようものなら町の中心部が大打撃を受けることになるわけだ。

それでは困ると町人たちは幕府をせっついて治水工事を求め、天和元年(1681年)に老中・稲葉正休らが治水計画を練るために現地視察にやってきた。その一行には、大阪の治水工事を権威することになる伊勢生まれの商人・河村瑞軒も同行していた。

この視察を受けて、淀川下流域の水の流れをよくするための工事が始まった。具体的には堂島川の浚渫と、九条島を掘り割って新しい水路を通すことである。
九条島の開削は貞享元年(1684年)2月に始まり、わずか20日という驚異的なスピードで完成する。出来上がった川は長さ3キロメートル、幅約90メートル。
決して短くも狭くもないのに、どうして20日程度で完成したのかは謎だ。重機もない時代にどうやって?

新しくつくられた川にはしばらく名前がなかったが、元禄11年(1698年)に安治川と名付けられた。
ところで、安治川が整備されても、旧河道は残っている。
そのうち富島町と古川町に挟まれた部分が、古川と呼ばれるようになった(現在の西区川口のあたり)。
もともとそういう地名だったからで、新川(安治川)に対して古い川、という意味ではたぶん、ない。

安治川が開削される前の古川は、北に向かって流れて正蓮寺川へと注いでいた。
けれど安治川が通ってからはその水勢によって川の流れが逆流し、安治川に流れ込むようになったという。そのため逆川とも呼ばれていた。

富島町は、大佛島とも呼ばれる。永禄10年(1567年)に炎上した東大寺大仏殿を再建するため、竜松院公慶という華厳宗の僧がここで勧進活動を行ったという逸話が由来だそうだ。
また、この勧進によって大仏殿を再建するだけのお金が集まったので、富を得られる島、富島という名になったらしい。
この富島は安治川開削後、船の中継地として重要な役割を担うようになり、元禄11年(1698年)に本格的な開発が始まり、富島新地が出来上がる。

一方、古川を挟むもうひとつの町・古川町も、遊郭として次第に繁栄していく。こちらはもともと、かりがね島と呼ばれる島だったようで、九条島と古川町を隔てる小さな水路は古川の裏川と呼ばれていたようだ。

こうして富島町・古川町がにぎやかになるにつれ、交通の便を整える必要が出てきて、古川には3本の橋が架けられることになる。
上流から古川橋・中津橋(または中橋)・国津橋で、うち国津橋だけは元禄11年(1698年)に架けられたことがわかっている。
他の2本も新地開発に伴うものだから、そう時を置かずに架けられたのだろう。

古川橋は安治川橋と同じ道筋に架かっていたから、この一帯における交通の要衝だったはずだ。
小さな水路だった古川の裏川にも、国津橋と同じ元禄11年(1698年)に橋が2本架けられている。東境橋と西境橋だ。

さほど広いエリアでもないのに、立て続けに6本も橋が架けられるということは、それだけ水運の要として賑わっていたということなのだろう。

ただ、いずれもさほど広い川ではなかったので、橋の規模はさほど大きくない。国津橋は50メートル弱とそこそこの長さがあるが、古川橋・中津橋は約40メートルで、幅員はどれも2メートル足らず。裏川の2本は長さ10メートル足らずの短いもので、幅員も1.5メートルほどだった。

安治川開削のおかげで船の往来は年を経るごとに盛んになり、幕末には富島に長州・萩藩の蔵屋敷が移転してくるほどだった。

〈明治以降〉

明治に入って大阪港が外国に開かれると、富島には運上所(後の税関)が置かれた。

明治3年(1870年)には運上所内に電信局が開設され、日本初の電信線の架設が行われている。

明治17年(1884年)には大阪商船株式会社(現在の商船三井)が創業するなど、江戸時代と変わらずこの一帯は活気にあふれていたようだ。
ますます増える人の往来に押されて、大阪税関は富島町の東端近くに親和橋を、大阪商船株式会社は古川橋と中津橋の間に阿部橋を、それぞれ新しく建設した。
親和橋は長さ11.5メートル、幅員9.1メートル。阿部橋は長さ16.4メートル、幅員4.7メートル。どちらも小さな橋とはいえ、わざわざかけるだけあって重要度は高かったと思われる。

それにしても、親和橋がほぼ正方形なのが気になる。どんな風に架かっていたのだろう。車の往来が多いから、それだけの幅が必要だったとかだろうか。
いずれも橋も大正にかかるまでは木橋だったが、中津橋は先んじて明治44年(1911年)に鉄橋化。

次いで古川橋が大正10年(1921年)、国津橋が大正12年(1923年)に架け替えられる。

阿部橋も昭和6年(1931年)に架け替えられたようだが、以前と変わらない木橋だった。
ちなみにこの橋は後に大阪商船株式会社から大阪市に管理が移管されているのだけれど、その経緯は明らかではない。

古川は昭和27年(1952年)に埋め立てられ、架かっていた橋も姿を消した。川の両岸で栄えた富島町・古川町の地名も今は残っていない。

〈概要〉

かつての富島町・古川町は、現在でいうと西区川口のあたり。地下鉄中央線阿波座駅より西、木津川を渡った向こうの一帯で、安治川と木津川に挟まれている。この辺りはかつて川口居留地として栄えた場所で、その痕跡をいくつか見ることができる。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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