新町橋 繁華街のにぎわいの中心にあった、遊郭の入り口の橋【大阪市西区】

新町橋【大阪市西区】

江戸の吉原、京都の島原といえば遊郭として有名だ。このふたつと並ぶ遊郭が大阪・新町にあった。
今の新町は中小企業がひしめく街で、かつての面影は全くないけれど、江戸時代には高級花街としてにぎわっていたらしい。
その新町への交通の便をよくするため、東側の通路として架けられたのが新町橋だ。

〈江戸時代〉

遊郭のために架けられた橋なので、まずは新町遊郭についてざっと話そう。

新町遊郭が開かれるまで、廓は町のあちこちに点在していた。それらは豊臣秀吉が許可を出したもので、天正11年(1583年)に大阪城の築城が始まった際、各地から集められた武士のために開かれたものだという。

江戸時代に入って松平忠明が大阪城主を任され、二代目将軍秀忠の命で大阪城を再建することになる。
このとき木村亦次郎という人が廓の存続を願い出て、松平忠明から許可を得た。
けれど存続には、条件がひとつ。町中に散らばっている廓を一ヶ所に集めるようにと言われ、木村亦次郎は田畑が広がっていた郊外の一角を開拓し、新しい町をつくった。

それが新町で、なんというか、安直もいいところのネーミングである。

新町遊郭が開かれたのは、寛永7年(1630年)。東に西横堀川、西に木津川、北に立売堀川、南に長堀川と、川に囲まれた一角だった。
今も残っているのは木津川だけだが、西横堀川=阪神高速環状線(四つ橋筋のすぐ東側を通っているもの)、長堀川=長堀通、立売堀川=立売堀として地図上で線を引いてみると、そっくりそのまま新町を囲むことができる。

東側からの入り口、というのはつまり市内からの客が出入りするところで、正門みたいなものだろう。
もとは港側から出入りする西の入り口しかなかったが、東側にも門を開いたことで新町遊郭は繁栄したのだという。新町橋はいわば、その繁栄の礎だ。
ちなみになぜ最初は門がひとつしかなかったのかというと、遊女の逃亡を防ぐためだというから、世知辛いどころの話ではない。
けれど門がひとつきりではあまりに不便だということで、新町橋が架けられたというわけだ。

この東西の門は午後9時になると閉ざされ、以降は誰も出入りすることができなかったという(後に刻限は午後11時に延長される)。
まさに遊郭は、世間から隔離された場所だった。
しかし逃亡しにくいということは、逃げるべき時にも逃げられないということだ。

新町遊郭では幾度か火災が発生し、たったふたつの門ではすべての人を逃がすことができずに被害が大きくなったという。
その反省から、避難用として新しい門がいくつも設けられたが、大いににぎわいを見せるのは相変わらず新町橋が架かる門だった。
ちなみに避難用の新門は、非常時以外には決して開けられることがなく、蛤門と呼ばれた。

ぴっちり閉ざされた蛤の口は、焼くとぱかっと開く。つまり、火事のときしか開かないということである。やっぱりどうにもこうにも世知辛い。
新町は瓢箪町・佐渡島町・吉原町・新京橋町・新掘町の五つの町から成り、五曲輪と呼ばれた。新町橋は瓢箪町に架かっていたので、別名をひょうたん橋という。
ということで、ようやく新町橋の話である。

新町橋を渡って西に行くと新町遊郭の東大門があり、橋の東側は道頓堀・心斎橋といった繁華街に続いている。
にぎやかな町に挟まれた新町橋もやはりにぎやかで、夜になっても出店が軒を連ねていたという。

夜店は今日は橋の北側、明日は南側というふうに毎日場所を変えていて、それは橋にかかる負担を均等にするための工夫だった。
人通りがあまりに多いので、夜店の場所を固定してしまうと橋の片側にばかり負担がかかり、橋が傷みやすくなるということらしい。
夜店の重みではなく、行き来する人の重荷で片荷になるというのだから、相当なものだったのだろう。

このころ、新町橋の長さは約33メートル、幅員約3メートル。『摂津名所図会』を見ると、橋の上にも両岸にも人、人、人である。

〈明治以降〉

新町橋が鉄橋化されたのは明治5年(1872年)。明治3年(1870年)に初めて鉄橋化された高麗橋に次いで二番目だ。おそらく輸入品と思われる鋳鉄製のアーチ橋で、アーチ部分より上の部分は木製だった。

肘木(柱の上に置かれる、桁と軒を支えるための横木)、簓木(横梁)、床版と重ねられ、高欄も木製。手すりを支える束柱の間にはX字に木材がはめ込まれており、このデザインは当時よく用いられていたものらしい。

東京の日本橋や両国橋にも、同様のデザインが見られるという。

なお、橋の反りがあまりに急で歩きにくいということで、3年後には早々に改修工事が行われている。
簓木の位置を下げて肘木と一体化させることで、勾配をゆるやかにしたようだ。

この簓木と肘木には装飾的な細工が施されていて、美観に気を配るべき庭園橋ならまだしも、公道に架かる橋にこうした装飾が施されるのは珍しいという。
明治に入ってから松島遊郭が開かれたこと、遊女解放令が出されたことで、新町遊郭からは徐々に人が離れていった。
とどめを刺したのは明治33年(1900年)の大火災で、新町の大半が焼失。

これを受けて廓は移転していき、跡地は商業地区として再開発が進められていった。

市街地とのアクセスが良好だったので、機械や金属の卸商、金融機関など様々な企業が進出したようである。
新町橋は今までとは違うにぎわいを見せるようになった町の中で、変わらず人の往来を支えてきた。

昭和2年(1926年)には火災に強い鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け換えられ、幅員10.9メートルと大幅に拡幅された。
コンクリートの表面は人造花崗岩で飾られ、明るい色合いの橋だったという。

しかし昭和39年(1964年)に西横堀川は埋め立てられ、新町橋も撤去された。今は、阪神高速が通っている。

〈概要〉

遊郭があった新町は、地下鉄長堀鶴見緑地線西大橋駅・西長堀駅の北側に広がる界隈。新町の東の端は、地下鉄四つ橋線四ツ橋駅が近い。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

「大阪を古地図で歩く本」 ロム・インターナショナル編 河出書房新社 2016年

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