伏見の京橋と坂本龍馬|幕末の志士たちが駆け抜けた水運の町

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京橋、その名が語るもの

京都府京都市伏見区南兵町

京都伏見の京橋について

伏見の町を歩いていると、ふと目に入るのが「京橋」という名前のついた橋だ。

この橋はただの橋ではない。かつての伏見城下を支えた重要な交通の要衝であり、江戸時代には京と大坂をつなぐ水運の拠点だった。

今は静かな川も、かつては十石舟や三十石船が行き交い、商人や旅人たちがせわしなく行き来していた。

豊臣秀吉と伏見の水運

豊臣秀吉が伏見城を築いたのは、軍事拠点としてだけではない。

伏見は京都と大坂の間に位置し、淀川や宇治川を利用した水運の拠点として格好の場所だった。

城下町には運河が張り巡らされ、物流が発達した。京橋はその中でも重要な橋で、ここを通る人々は京へ向かう者、大坂へ下る者、それぞれに旅の思いを抱えていた。

江戸時代の京橋

江戸時代になると、伏見は幕府の直轄地となり、ますます繁栄する。京橋の周辺には旅籠や問屋が立ち並び、賑やかな町並みが広がっていた。

武士も商人も旅人も、この橋を渡ることで伏見の活気を肌で感じていたことだろう。

京橋船着場と伏見の風情

今でも京橋の近くには「京橋船着場」があり、観光用の十石舟が運航している。水面をゆっくりと進む舟に揺られながら、かつての水運の時代に思いを馳せるのも悪くない。

伏見の町は、江戸時代には物流の要所として栄え、多くの旅人や商人がこの地を行き交った。その中には、幕末を駆け抜けた坂本龍馬の姿もあった。

坂本龍馬は、薩摩藩と長州藩の同盟を成立させるため、伏見の船宿「寺田屋」に滞在していた。彼がこの町を歩き、京橋のたもとで思索にふけったこともあったかもしれない。

伏見といえば酒どころ

伏見といえば、やはり酒どころだ。京橋のすぐ近くには、月桂冠黄桜といった老舗の酒蔵が並び、今もなお美酒が生み出されている。

豊かな伏流水に恵まれたこの地で造られた酒は、旅人たちの喉を潤し、時には商談の場を和やかにしたことだろう。龍馬もまた、仲間たちと杯を交わしながら、新しい時代の訪れを夢見たに違いない。

静かに流れる川、歴史を刻んだ町並み、そして坂本龍馬の足跡。伏見・京橋の風景の中には、今も幕末の息吹が感じられる。

今も生き続ける京橋

時代が変わり、京橋の役割も変わった。しかし、伏見の町には今も歴史の記憶が息づいている。

京阪電車の「中書島駅」や「伏見桃山駅」から歩いて訪れることができ、寺田屋や御香宮神社といった名所も近い。

京橋は単なる橋ではない。それは伏見の歴史そのものを映し出す場所だ。

静かに流れる川のほとりに立ち、かつてここを行き交った人々の声に耳を傾けてみるのも、また一興である。

京橋の立て看板

京橋の説明看板

京橋の説明

京橋
この橋を京橋という。橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。
淀川の水運は古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596年~1615年)、角倉了以(すみのくらりょうい)が京都市中と伏見との間に高瀬川を 開削するに及んで、この附近は旅人や貨物を輸送する船着き場として大いに栄えた。
淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石舟や高瀬川を往来した高瀬舟、さらに宇治川を下ってきた柴舟などがこの辺りにひしめき合い、数十軒の船宿も建ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。
しかし明治初年、京都大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は 往時の盛観は見られないが、ここから東約50mのところにある旅館「寺田屋」がわずかに昔の舟屋のなごりをとどめている。
京都市(説明引用)

京橋の周辺

寺田屋

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旅籠 <yoastmark class=

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寺田屋騒動址
文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光(ひさみつ)を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があった。
久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入った。
これを知った有馬新七ら30余名の急進派志士は、関白九条尚忠(ひさただ)と京都所司代酒井忠義を殺害するべく、文久2年4月23日、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。
これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念させるべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。
奥の広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げる。
京都市
(説明引用)

寺田屋と坂本龍馬――幕末を駆け抜けた志士の足跡

坂本竜馬先生遭難の址

坂本竜馬先生遭難の址

伏見の船宿、寺田屋

伏見の町を歩くと、歴史を感じさせる町並みの中に「寺田屋」が建っている。江戸時代から続く船宿で、京と大坂を結ぶ水運の要所にあった。幕末、この場所は維新志士たちの集まる拠点となり、坂本龍馬もたびたびここを訪れていた。

坂本龍馬と寺田屋の関わり

坂本龍馬が寺田屋に滞在したのは、薩摩藩と長州藩の同盟を進めるための交渉のためだった。当時、幕府に反対する志士たちは各地で活動しており、龍馬もその一人として奔走していた。寺田屋は、そのような志士たちが情報交換をする場となり、伏見の町の中でも特に重要な場所であった。

寺田屋とお龍の存在

また、寺田屋には、坂本龍馬を支えた女性・お龍の存在があった。お龍は寺田屋の女将・お登勢のもとで働いており、龍馬と深い関係を築くことになる。後に、お龍は龍馬とともに薩摩へ向かい、霧島温泉へ旅をする。この旅が「日本初の新婚旅行」とも言われている。

現在の寺田屋

寺田屋は現在も伏見にあり、幕末の雰囲気を感じられる場所となっている。館内には、当時の資料や史跡が展示され、龍馬や維新志士たちの足跡を辿ることができる。伏見の町は歴史とともに歩んできた町であり、寺田屋はその象徴の一つとして、多くの人々に親しまれている。

幕末の動乱の中で、志士たちは自らの信念を貫き、歴史を動かしていった。寺田屋を訪れれば、彼らの熱い思いが今も感じられるかもしれない。