平野橋 世界初と言われた、スマートな建設様式【大阪市中央区】

平野橋【大阪市中央区】

平野橋の長さは、57メートル。平らで道路とシームレスにつながっている。
別に平野橋に限ったことではないのだが、短く平たい橋だと、どうも川をまたぐという感覚がうすくて、橋を渡っている気がしない。それだけ、大阪には橋が多いということでもあるのだけれど。平野橋くらいの規模の橋はごまんとある。いや、八百八橋なので五万は嘘か。
平野橋が架かる東横堀川は、南北にほぼまっすぐ流れる細めの運河で、60メートル前後の橋がちょんちょんといくつも架かっている。大阪市の西側、海に近いところにある木津川や安治川は橋が少なくて渡るのに往生するが、東横堀川には橋が多い。それは町中で大きな船の行き来がなかったということでもあるし、昔から町人が多く、彼らが自分たちの生活のために次々橋を架けていったということでもあるだろう。大阪の橋のほとんどは、もともと町人自らが架け、維持管理を担ってきた町橋だ。

〈江戸時代〉

現在の平野橋界隈は閑静な町の一角だが、昔はたいそうにぎやかだったという。
橋の東には神明神社、西には御霊神社があり、門前の盛り場や定期的に開かれる夜店は、大阪名物のひとつだった。
また、北組の惣会所が近くにあり、町政の中心地でもあったという。北組というのは町内会のようなもので、北組・南組・天満組を総称して大坂三郷という。これがいわゆる大坂の「町」であった。

平野橋の西詰を平野町というが、この地名の由来ははっきりしない。一説によると、御霊神社の祭神である早良親王が、京都の平野神社に祀られていたことにちなんだという。

〈明治時代〉

江戸時代には大いににぎわったらしい平野橋界隈だが、明治に入ると徐々に人通りが減っていった。市電などの新しい交通網が発達して人の流れがそちらに集中したのが、主な要因だろう。大通りが整備されれば、細い道は地元民しか使わなくなる。
そういうわけで平野橋を渡る人も少なくなり、他の橋に比べて重要度が低いということで、鉄橋化も遅くなった。早いものは明治18年(1885年)の大洪水の後に鉄橋化されたというのに、平野橋は明治31年(1898年)に架け替えられた時も、まだ木橋のままだったという。
ちなみにこの時、平野橋の長さは61.7メートル、幅員4.5メートル。橋の規模は江戸時代からほとんど変わっていない。
明治末期以降に鉄橋化されたというが、詳細はわかっていない。

〈昭和期〉

現在の橋が架けられたのは昭和10年(1935年)、第一次都市計画事業に伴ってのことだ。この時用いられた建設様式は、世界初と称されるほど珍しいもので、ドイツの橋梁専門誌に取り上げられたという。
逆ランガー橋という建設様式で、三径間連続の鋼鈑桁を、セルフアンカーされたバランスドアーチで補鋼。アーチが床組全てを支える構造ではないため、アーチ部材がとても小さくつくられており、スマートな印象を与えるデザインになっている。
道路の拡幅に伴って、平野橋の幅員も12.7メートルに広がった。橋の長さは57メートル。

〈現在〉

惜しむらくは、このスマートなデザインが日陰に隠れてしまっていることだろう。
東横堀川の上には、高速道路が通っている。ぴったり川に沿っているので、東横堀川はおおむね日陰であり、架かる橋もまたしかり。青空を背景に橋を眺める、というのがどうにも難しい立地なのだ。
けれど別の点からいえば、東横堀川は橋を眺めるのに適している。川がほぼまっすぐで、橋が多いのだから、橋の上から、隣の橋を真正面に、近くに見ることができるわけだ。
平野橋の上からは、北に高麗橋、南に大手橋を見ることができる。平野橋を鑑賞するなら、より近い大手橋から見るのがいいだろう。

〈概要〉

地下鉄堺筋線・京阪本線北浜駅から約10分。
昭和10年(1935年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

「大阪を古地図で歩く本」 ロム・インターナショナル編 河出書房新社 2016年

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