長堀橋 交通の要であった、公儀橋のひとつ【大阪市中央区】

長堀橋【大阪市中央区】

長堀橋は、地下鉄長堀鶴見緑地線の駅名にその名を残しているが、橋そのもの自体はもうない。長堀川が埋め立てられるのに伴って姿を消した橋のひとつである。長堀川は現在の長堀通とおおむね一致しており、地下鉄長堀鶴見緑地線はその下を通っている。

〈江戸時代〉

長堀川は、東横堀川の末吉橋のあたり(地下鉄でいうと松屋町駅付近)から流れ出し、木津川の伯楽橋(西長堀駅より西)に注ぐ運河で、産業道路のような役割を果たしていた。元和8年(1622年)に開削されたと考えられており、伏見の商人である三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田心斎らによって開発が進められた。この岡田心が架けたのが、心斎橋だ。他の商人たちも、明治初期までは地名にその名が用いられていた。

長堀橋は紀州街道に架かっており、交通の要として、同じ道筋に架かる日本橋とともに公儀橋に指定されていた。しかし幕府が直接管理する公儀橋とはいえ、日々の管理は近隣の町人たちに委ねられる。長堀橋を主に管理していたのは、橋本町南組の総年寄を務める安井家だった。安井家がこうした力を持っていたのは、元和7年(1621年)に大阪町奉行より、安井九兵衛が島之内の開発の監督役に任ぜられたことに端を発するようである。

元禄時代の資料によると、当時の長堀橋は橋の長さが約35m、幅員7.3m。享保19年(1734年)に架け替えられた際には幅員が5.9mになっているが、道幅に応じて比較的幅の広い橋が架けられていたらしい。

〈明治以降〉

重要度の高かった長堀橋は早々に鉄橋化され、明治10年(1877年)12月に完成する。この時の幅員は7.8mであった。

その後、市電第三期線事業にともなって長堀橋は再び架け替えられ、明治45年(1912年)5月の市電堺筋線開通に先立って完成する。道路幅とともに橋の幅員も大幅に拡張され、21.6mになった。

昭和39年(1964年)、地下駐車場建設のために長堀川が埋め立てられると、長堀橋も姿を消した。

〈長堀橋概要〉

地下鉄長堀鶴見緑地線長堀橋駅すぐのところに、記念碑が建てられている。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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