京橋 大阪城の北の玄関口としてにぎわったところ【大阪市中央区・都島区】

京橋【大阪市中央区・都島区】

大阪の京橋というと、繁華街のイメージだ。いや、呑み屋街と言ったほうが正しいか。JR京橋駅の東側に広がる商店街には居酒屋がひしめいて、夜通し騒がしい。また、ショッピングモールや大型スーパーもあり、キタやミナミほどではないにしろ、いつも人が絶えないにぎにぎしい街である。
さて「京橋」は、そのどこにあるだろう? 地元民なら、京橋に行くまでに渡る橋をいくつか思い浮かべるかもしれない。けれどたとえば遠方から遊びに来た人、仕事帰りに呑みに寄った人などは、あの界隈で橋を見かけることはないんじゃないかと思う。
じゃあ「京橋」はもうないのか、というと、実はある。ただ、繁華街の京橋から離れているだけだ。駅で言うならむしろ天満橋(京阪電車で、京橋の次の駅)の方が近い。
その場所は大阪城にほどちかく、寝屋川に架かっている。橋を渡って少し歩くと大阪城公園の入り口、京橋口。大阪城公園駅や森ノ宮駅を表の玄関口とすると、ちょうど真裏に当たるのであまり人気はないけれど、かつては京街道や大和街道に通じ、多くの往来があった場所である。京街道につながる橋で、京橋だ。

【江戸時代】

寝屋川はかつて大和川の本流にあたり、水量は今よりはるかに多く、川幅も広かった。大阪城はこれを天然の防御線として、北側の守りに用いていたわけである。また、寝屋川と淀川の合流地点には自ずと船が集まり、物資が集まれば市が立つ。そういうわけで京橋が架かっている場所には、かつて荷上げ場があり、市があったという。
またこの場所は、大阪城を起点として京都へ向かう京街道、「野崎まいり」で有名な野崎街道を擁する大和街道の出発点でもあった。大阪城の北の玄関口として、にぎわっていたようである。
ただ、京橋がいつごろ建設されたのかは定かではない。大阪城築城と同時に京街道は整備されたから、その一環として架けられたのかもしれない。「大坂冬の陣屏風」には京橋が描かれているので、豊臣時代に建設されたのは間違いないようだ。しかし夏の陣で敵方に落とされたか、落城とともに焼け落ちたかで、豊臣時代の京橋はなくなってしまった。

大阪城の再建は、元和6年(1620年)からスタートした。工事は大規模なもので、それは徳川の権威を示すためであり、豊臣時代の城を盛り土の下に埋めてしまうためだった。だから現在の大阪城も、徳川時代の大阪城を模している。厳密に言うと太閤さんのお城ではないのだ。
京橋が再建されたのは、元和9年(1623年)。これは擬宝珠に「大坂 京橋 元和九年癸亥暦四月吉日」と刻まれていることからわかる。おそらくこのころに、周辺の整備も含めて城の再建が終わったのだろう。
大阪城の再建には各地の大名が動員され、石材は瀬戸内の各地から運び込まれた。その荷上げ場が京橋の南詰一帯に設けられていたという説がある。石は重く大きなものであるから、当然船も大型になり、荷上げ場に船を寄せるには橋が邪魔になる。そのため京橋が架けられたのは築城が終わってから、つまり再建工事の終盤のことだろうと考えられる。
ちなみに擬宝珠には延宝4年(1676年)の年号も刻まれており、この時に架け替え工事が行われたものらしい。

ところで擬宝珠というのは、橋の欄干に取り付けられた飾り物のことをいう。玉ねぎに似た形のアレである。大阪の橋でこれがつけられているのは、公儀橋の証だった。町人が架け、町人の手で維持管理される町橋と違って、公儀橋は幕府の管轄だ。それだけ重要な橋だということで、大阪城に直結し、京街道の一部だった京橋も公儀橋に指定されていた。

元和9年(1623年)に建設され、延宝4年(1676年)には架け替えられた京橋。木橋は耐用年数が短かったこともあるし、寝屋川と淀川の合流地点に近いため、水難も多かっただろうと思われる。寝屋川の水量が今よりずっと多かったこと、また合流地点では水流が複雑になるので氾濫しやすいこと、がその理由だ。
そんな危険ポイントが城のすぐ側にあるのは考えものだ。人の往来の多い場所でもあるから、万が一の時には甚大な被害になりかねない。もともと大阪は川の多い町であるから治水工事の重要性は高く、貞享2年(1685年)、河村瑞軒らによって淀川・大和川の治水工事が始まった。
その過程で京橋付近の川幅は大きく広げられ、新井白石の『畿内治河記』によれば30メートルもの拡幅だったらしい。これによって京橋は長さ107.5メートル、幅員7.6メートルというかなりの規模になった。

ちなみに治水工事によって寝屋川の水難は減ったが、淀川で起きた洪水が逆流して寝屋川にまで入り込み、浸水被害をもたらしたことがあった。これではいかんということで背割堤が造られ、将棊島と呼ばれた。「将棊島粗朶水制跡」が天満橋を渡って西側、大川沿いの南天満公園に建てられている。

【京橋川魚市場】

大坂の魚市場といえば雑魚場市場が著名である。しかし近世の魚市場は雑魚場ひとつではなく、木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれていた。また海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあった。
京橋川魚市場の起源は、石山本願寺のときに設けられた鮒市場とされる。
もともと魚民が、京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられる。
慶長年間(1596~1615)のはじめごろに、小出播磨守秀政の指示を受けて構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた。
以降近世を通して、幕府に大坂で川魚を独占的に扱うことを公認された市場となった。
近大に入り、市場機構の変革がすすむ中、京橋川魚市場は明治末期には中之島六丁目付近へ移転し、大正四年(1915)に大坂川魚株式会社が設立された。
(大阪市教育員会)

京橋川魚市の図(摂津名所図会第4より)

【明治以降】

かように洪水対策に力を注いでいたわけだけれども、明治18年(1885年)年の大洪水は凄まじかった。大川沿いの橋は次々流され、中之島界隈の橋はほぼ全滅。その流木が木津川に流れ込み、木津川沿いの橋をなぎ倒したというからとんでもない。
京橋も甚大な被害を受け、鉄柱木桁の橋に架け替えられた。

現在の橋になったのは、大正13年(1924年)。第一次都市計画事業によるもので、この時橋の長さは73.2メートル、幅員9.1メートルだった。

昭和になって寝屋川の改修工事が始まると、京橋はさらに短くなる。淀川の開削工事によって将棊島がその役目を終えたこと、京阪電車が市の中心部に乗り入れるため土地の整備が必要だったことなどから、将棊島の一部が掘削され、寝屋川の河口が付け替えられた。旧河口部は埋め立てられ、この時に京橋の南側も埋め立てられている。結果、橋の長さは55.2メートルと、江戸時代の半分になってしまった。
また、寝屋川の改修工事と同時期の昭和4年(1929年)に、寝屋川橋が建設される。石切大阪線(府道168号線)を通る寝屋川橋は多くの人、車の往来を支え、一方で京橋の利用者は少なくなっていった。
地図を見れば一目瞭然なのだが、京橋と寝屋川橋は寝屋川橋東詰交差点を起点に架かっていて(これが京橋北詰じゃないところに、両橋の力関係がうかがえる)、寝屋川橋は大通り沿い、京橋は大通りからそれて大阪城に向かうルートになっている。でも大阪城に来る人というのはたいてい大阪城公園駅や森ノ宮駅を使うので、こちら側から入ることはあまりない。ついでに言うと京橋口や大手門のあたり、大阪城の西側は官庁街なので、人通りが多い、というほどでもない。
そういうわけで、かつては公儀橋として重要視された京橋は、次第に地元民だけが知る、ひっそりとした存在になっていった。

【現在】


こんな書き方をすると栄枯盛衰みたいな印象を受けるかもしれないが、別に京橋は没落したわけでも、打ち捨てられたわけでもない。むしろ歴史ある橋は大事にしようということで、昭和55年(1980年)にはなかなか力の入った改修工事が行われている。
改修のポイントは、大阪城と調和のとれたデザインにすること。真正面に大阪城を望む京橋が、ひらぺったいコンクリート橋ではあまりに味気ない。
そこで、外装は石垣をイメージし、橋面も石畳を模したデザインが採用された。照明は太閤秀吉ゆかりの千成びょうたんをモチーフにしており、ぽこぽことまぁるい明かりが連なっているのは目に楽しい。
ひっそりとだが、確かに歴史は息づいている。そしていくら今の大阪城が徳川大阪城を模しているといえども、大阪人は太閤さんが好きである。

〈京橋概要〉

橋長:55.11m
幅員:9.0m
形式:桁橋
完成:大正13年(昭和56年改装)
位置:中央区、都島区
京阪本線・地下鉄谷町線天満橋駅より、東へ10分ほど。京橋駅からでも行けるが、20分くらいかかるだろう。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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