大渉橋 船の渡しがあったから大渉【大阪市西区】

大渉橋【大阪市西区】

大阪には昔から川が多く、橋も多かったので八百八橋という。

橋がなくなった後も地名として残ったので、○○橋という地名は少なくない。また川が多かったということは、川に区切られた土地、つまり島が多かったということでもあって、○○島という地名もけっこうある。福島とか堂島とか江之子島とか四貫島とか出来島とか。今、地図を見ずにパッと思いついただけでこれだけあった。たぶん調べればもっとあるだろうし、北浜とか鷺洲とか川口とか、水辺に関わりのありそうな地名もいろいろあるだろう。

そんな土地柄だから、大阪は八百八橋だったわけだけれど、橋を架けるには労力も時間もかかる。架けたら架けたで、維持管理も一苦労だ。特に昔は木橋だったから、洪水で流されるわ火事で焼けるわ、そもそも耐用年数が短いわで大変だったことだろう。しかも大阪の橋のほとんどは町橋といって、町人が管理していた。行政、つまり幕府が管理していたのは公儀橋と呼ばれる12本だけ。町人が、自分たちが不便だからといって架け、自分たちで日々の手入れをし、必要ならば架け換えていた。なんとも自立的な話である。勝手に架けて怒られるということもなかったのだろう。今やったら役所とかに怒られる。

話を戻すと、橋を架けるのは大変だ。なので橋を架けずに、渡し船でしのいでいたところもあったらしい。大渉橋が架かる場所も、もとは渡し船が航行していたという。

〈明治期〉

大渉橋は江之子島と川口をつなぐ、木津川に架かる橋だ。
川口は江戸時代から港が設けられ、たくさんの船と人でにぎわった土地である。明治になって大阪港が外国に開かれると、外国人居留地として整備が進められていく。これに合わせて木津川には木津川橋が架けられ、次いで明治2年(1869年)に大渉橋が架けられる。
船の邪魔になるからと、江戸時代の木津川には亀井橋1本きりしか架かっていなかった。代わりに、江之子島と川口を行き来するには渡し船を使っていた。これが大渡しと呼ばれていて、そこから名前をとって大渉橋としたらしい。「渡」がなぜ「渉」になったのかはわからない。長さ65.1メートル、幅員5.8メートルの橋だったという。

この時架けられた橋は残念ながら、約15年しか保たなかった。明治18年(1885年)の大洪水で流されたのである。
この時の被害は甚大で、大阪市内ほぼ全域が浸水したという。濁流は次々に橋を呑み込んで、中之島界隈の橋はほぼ全滅。中之島東部に架かる難波橋の流木材は木津川にまで至り、これがぶち当たったために木津川橋は壊れてしまう。それから亀井橋、大渉橋、松島橋、千代崎橋と、木津川の橋も次々になぎ倒されていった。
これを受けて市内の橋は鉄橋化が進められ、大渉橋も鉄杭を持つ木桁の橋に架け換えられた。完全な鉄橋にするのは重要性の高い橋が優先で、上流の木津川橋などはいち早く鉄橋になっている。当時は江之子島に、大阪府庁舎が建っていたからだ。逆についぞ再建されなかった橋もあって、亀井橋がそれである。

〈現在〉

大渉橋が現在の姿になったのは昭和4年(1929年)、第一次都市計画事業でのこと。橋の長さは67.6メートルで、幅員が11メートルとおよそ倍に拡幅された。

ちなみに大阪市内では、今も渡し船が現役で活躍している。渡し船なんて昔のものというイメージがあるだろうけれど、スマホをいじっているおねーちゃんも、ペットボトルのジュースを飲んでいるおにーちゃんも乗っている。

大正区のあたりは川が多く、船の行き来も多いので、渡し船が欠かせない。橋を架けると大きな船が通れなくなってしまうし、船が通れるくらい高いところに橋を架けると歩いて渡るのが大変だからだ。実際、木津川の下流に架かる千本松大橋なんかは、橋が架かって車は便利になったものの、歩行者が橋を渡るのは大変しんどいので、地元住民の要望で渡し船が存続されることになった。通勤通学のラッシュ時には10分間隔で航行していて、地下鉄なみである。

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〈大渉橋概要〉

橋長:89.66m
幅員:11.0m
形式:桁橋(ゲルバー桁)
完成:昭和4年
行政区:西区
地下鉄中央線阿波座駅より南西に約8分。
昭和4年(1929年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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