本町橋 戦時には攻防の要とも目された、交通の要衝・公儀橋【大阪市中央区】

本町橋【大阪市中央区】

本町橋と府立商品陳列所
本町橋と府立商品陳列所(大阪市立中央図書館所蔵)所収

本町に橋なんてあったっけ? 大阪に住んでいる人でも、もしかしたらそう思うかもしれない。四ツ橋や心斎橋のように、地名だけが残っているのかな、と。

というか書いている本人が、しばらく本町橋が橋だと気づいていなかった。いや、下にはもちろん川が流れているし、橋の名前が記された親柱もちゃんと建っているのだけれど、あんまりスムーズに、フラットに道路と一体化しているものだから。

あとは上空が高速道路でふさがれているのも、橋だと気づかなかった理由のひとつだと思う。
普通、橋の上には何もない。ただ空が広がっているだけだ。その開放感が橋のひとつの魅力で、だから中之島の橋々は都会のオアシスとして親しまれているのである。

でも本町橋の上には、高速道路。開放感も何もあったもんじゃない。川はすっぽり高速道路の下に収まって、静かに水をたゆたわせている。
一般的に思い浮かべる川の景観とはずいぶん違うけれど、これはこれで都会らしい味わいがあって面白い。

橋が架かっている本町通は、大阪市の東西の大動脈・中央大通の一本北。昼も夜も人の往来、車通りが絶えないところだ。
本町橋はいかに存在感がうすくとも(そう感じているのは私だけかもしれないけれど)、交通の便において必要不可欠で、実はそれは江戸時代のころから変わっていない。

〈江戸時代〉

本町にはかつて木綿問屋や呉服屋、古着屋が集まり、商売の土地として栄えていた。今でも本町や船場のあたりは「糸へん(繊維業)」の町である。

本町橋が建設されたのがいつかは定かではないけれど、おそらく東横堀川が開削された天正13年(1585年)からそう間を置かずに架けられたのではないかと考えられている。
東横堀川に架けられた本町橋は、この一大商業地と大阪城を結ぶ重要なもので、後に公儀橋に指定された。

町人が架け、町人の手で管理する町橋が圧倒的に多い大阪において、幕府が直接管理する公儀橋は12本しかない。
だから公儀橋に選ばれるというのは、それだけ重要視されていた橋だということになる。
本町橋がいかに重要だったかは、戦の様子からもうかがえる。

慶長19年(1614年)11月、豊臣氏を攻め滅ぼそうと徳川家康が仕掛けた大坂冬の陣。本町橋の西詰には徳川方・蜂須賀隊が陣を構えていた。そこへ12月12日の夜、大阪城方から激しい夜討が仕掛けられる。夜討を指揮したのは塙直之、またの呼び名を塙団右衛門。軍記物『難波戦記』や講談で、一躍名を知られた武将である。

塙団右衛門は本町橋の上に腰掛けを据えて指揮を執り、自ら武器を振るうことはなかったらしい。彼の指揮のもと部隊は蜂須賀の陣に襲いかかり、不意をつかれた蜂須賀の兵士たちは鎧をつける暇すらなかったという。

蜂須賀側に20名、城方に4名の死者と、多数の負傷者を出し、城方はすばやく引き上げた。その後には「夜討の大将塙団右衛門」と書いた木札がばらまかれていたという。
塙団右衛門はせいぜい足軽大将ていどの身分だったが、この戦いで味方にも敵方にもおおいに名を売った。

大坂冬の陣ではいったん豊臣と徳川の間で和睦が成立したが、約束を違えて内堀まで埋められた豊臣方は激怒し、再び戦が勃発する。
そうして大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、大阪城は徳川のものとなる。

ちなみに現在の大阪城は豊臣の大阪城ではなく、徳川時代の大阪城を模して、昭和6年(1931年)に再建されたもの。
豊臣大阪城の多くは地中に埋まっている。

大阪の町は幕府の手によって復興が進められ、大阪城の三の丸が解放されるとともに、本町橋の東側は商業地として発展していく。
東横堀川には「東堀十二浜」と言われるほど多数の荷揚げ場が設けられ、川船の物流が盛んだった。
のちには西町奉行所が設けられ、行政の地としても栄えることになる。

夜になると東横堀川には遊山舟が浮かび、月見や花見でおおいににぎわったという。
東横堀川は現在、高速道路の下にすっぽり収まるくらいの川幅しかない。けれど江戸時代には今より広く、したがって本町橋も長かった。

橋の長さは47.8メートル、幅員は7.8メートル。京橋や高麗橋と同じくらいの規模だったらしい。

本町橋は反り橋だったけれど、反りは76センチメートルと他よりはややゆるやかだった。

江戸時代の橋は当然木製で、傷みやすいし、洪水や火事にも弱い。大阪では享保9年(1724年)に妙智焼と呼ばれる大火災があって、この時に本町橋は焼失している。
出火元は、南堀江橘通(現在の西区南堀江2丁目)にあった金屋治兵衛の祖母・妙智尼の家。南南西の強風にあおられて燃え広がった炎は、実に市街地の3分の2を焼き尽くしたという。とんでもない規模の大火事である。

焼失した家屋は11,765軒(世帯数にして60,292軒)、土蔵は1,097か所、蔵屋敷は30か所。公儀橋も12本中9本が焼失した。
大阪三大橋の天満橋・天神橋・難波橋、それから高麗橋に本町橋、農人橋、長堀橋に日本橋、野田橋。これだけ見ても、広範囲に被災しているのがわかるだろう。

ちなみに焼失をまぬがれた公儀橋は京橋と、その北に位置する備前島橋(御成橋)、そして鴫野橋と、出火元の南堀江より東側にあるものだけ。
風向きの具合でこちらには日が燃え広がらなかったということだろう。
町橋も東横堀川・西横堀川の橋を中心に45本もが通行不能になった。

火災からの復興は、相当な時間と労力が必要だったことだろう。本町橋が再建されたのは、2年半後のことだった。
詳しい資料は残っていないが、いったんは仮橋を架け、重要性の高いものから順次架け替えられたのではないかと考えられている。

〈明治以降〉

本町橋の東詰にあった西町奉行所は、明治時代に入って大阪鎮台(陸軍)となった。さらに後には大阪裁判所、大阪府庁と移り変わっていく。

明治7年(1874年)に大阪府庁が江之子島に移転した後は、大阪博物場が設けられた。

明治11年(1878年)に府立教育博物館が併合されると、ここは産業見本市・図書館・博物館・美術館・動物園・植物園・舞台・公園が一体となった総合産業文化施設となり、多くの人々で賑わったようである。

そういうわけで相変わらず本町橋は人の往来が多く、重要な橋だったので、早々に焼けやすく流されやすい木橋から、鉄柱木桁の橋に架け換えられる。

明治14年(1881年)までに架け換えが完了したらしい本町橋は、当時はまだ珍しかった鉄製の橋として注目を集めた。
そのころ完全に鉄橋化されていたのは8本、鉄柱木桁も6本しかなかったらしい。

本町橋が完全に鉄橋化されたのは大正2年(1913年)。

明治30年代から敷設が始まった市電の、第三期線事業に伴ってのことだ。
この際、意匠にも配慮が加えられ、旧木津川橋と揃いの瀟洒なデザインが施されている。

これは、旧府庁舎の表玄関に施されていたギリシャ神殿風のデザインを模したものであるらしい。

〈現在〉

現在の本町橋はこの大正2年に架けられたもので、つまりかなり古い。

木橋ほどではないとはいえ、鉄橋だって年を経れば傷んでくるし、本町通ほど交通量が多ければなおさらだ。そのため鋼材の部分取り替えと補強、床版の打ち換えといった大規模な補修工事が約4年をかけて行われ、昭和57年(1982年)に完了している。

この際に美装化も施された本町橋は、見違えるほど美しくなったという。
橋詰の空き地にはベンチや花壇が置かれ、人々の憩いの場にもなっていたらしい。

デザイン性に優れた本町橋を、じっくり眺められないのは少々残念だ。高速道路の下にあるということは、本町橋からの景観がイマイチになるだけでなく、外から本町橋を眺めるにもあまり適しているとは言いにくい。

けれど東横堀川は人工の運河らしくすぱんとまっすぐな川なので、一本北にある大手橋の上に立つと、真正面に本町橋を望むことができる。
望む、というほどに開かれた景色ではないけれど、無骨な高速道路の橋脚に挟まれて建っているからこそ、本町橋のレトロなデザインは際立つ、とも言えるかもしれない。

せっかく際立っているのにその立地ゆえなかなか人目に止まりにくいというのは、やはり残念ではあるけれども。

〈概要〉

最寄りは地下鉄堺筋線・中央線堺筋本町駅。ちなみにすぐそばにあるマイドーム大阪が、かつて西町奉行所が建っていた場所である。
大正2年(1913年)竣工。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

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