天神橋 大阪の中心部の上町台地と大川以北を結ぶ重要な交通の要【大阪市北区】


Illustration by Hiroki Fujimoto

天神橋【大阪市北区】

〈中世〉

天神橋が架けられたのは文禄3年(1594年)と考えられている。
織田信長は元亀元年(1570年)の石山本願寺討伐の折、大阪天満宮も焼き討ちにするとともにその所領を没収した。これは天満宮の会所支配人であり、連歌所宗匠を兼ねていた大村由己(ゆうこ)に、石山本願寺と内通しているという疑いがかけられたためである。後に豊臣秀吉の時代になると、由己は連歌衆として大阪城に出入りするようになり、文禄3年に謡曲『吉野詣』を著して秀吉から恩賞を賜ることになる。そこで由己は天満宮の所領を復活させるよう願い入れた。これに感謝した天満宮の社家は由己に礼をしようとしたが、由己はそれを受けず、代わりに大川に新しい橋をかけてくれるよう頼んだという。天神橋はそのようにして架けられた。
ただ当初は橋に名はなく、単純に新橋と呼ばれていたらしい。次第に、天満宮が管理する橋ということで天神橋と呼ばれるようになっていった。

〈江戸時代〉

元和2年(1616年)、大阪は徳川の支配地となる。同時に大坂三郷と呼ばれる町組が組織され、天神橋の管理は、町組の一つである天満組が担うことになった。つまり、住民組織が橋を管理していたのである。
しかし天神橋は後に、その重要性の高さから公儀橋に指定されることとなる。

天神橋は、大阪の中心部である上町台地と、大川以北を結ぶという点で重要な交通の要であった。人の往来が活発になることで地域はますます発展し、天神橋の重要性も高まっていく。公儀橋に認定されたのもそれゆえだろう。
天神橋の重要性を表すものに、嘉永3年(1850年)に橋を改築した際の渡初め神事がある。『摂津名所図会大成』によれば、「左右の欄干に幕を張り」「三方に供物を盛り、幣帛を立て」「公よりも東西の公吏見分ありて厳重なり」といった様子で、荘厳な儀式だったことが窺える。
また戦においても、天神橋の重要性をうかがわせる逸話がある。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の折、幕府はいち早く天神橋を壊し、反乱軍の進軍を防ごうとしたという。この時の様子は、森鴎外の小説『大塩平八郎』に詳しい。

天神橋と天満橋、難波橋を合わせて三大橋と呼ぶ。文字通り大阪最大級の橋であり、中でも天神橋は特に長かった。貞享年間に行われた淀川の治水工事で川幅が広がり、天神橋も延長されて137間4尺(1間=6尺として約250m)になったという。この時が最長であったと見られている。ちなみに幅員は、天満橋のほうが1mばかり広かったようだ。
また、橋の反りが1丈4尺5寸(約4.5m)もあり、なかなかの急勾配であったという。

大阪は川が多いためしばしば洪水の被害にあったし、家が密集していたので火災の被害も小さくはなかった。町家に近接する天神橋も、幾度となく火災で焼失している。大阪最大の火災とされる享保9年(1724年)の妙智焼では、天神橋は全長122間のうち58間もが焼け落ちたという。公儀橋12本のうち9本に被害が及んだ大火災であった。
また水難に関しては、貞享3年(1686年)に架け替えられてから明治21年(1888年)に鉄橋化されるまでの約200年間で、少なくとも13回は架け替えや復旧工事が行われている。

洪水や火事がなくとも、木橋は鉄橋に比べてひどくもろい。そのため維持管理費を工面するのにも、いろいろと苦労があったようである。
たとえば天神橋を含む公儀橋12本では、牛馬や車の往来が禁止されていた。できるだけ橋の傷みを抑えるための取り決めで、橋の上に露店を出すのも禁止だったという。江戸時代中期からは、べか車という荷車が多く用いられるようになったが、これも橋にかける負担が大きいため、車の寸法を制限したり、橋を渡ることを禁止したりしている。
公儀橋を修繕する際は、大坂金蔵から費用を出していた。しかし明和4年(1767年)から、塚口屋七兵衛という商人が費用の工面を担うようになる。七兵衛のアイデアは、旅籠屋の株300軒分を1株ひと月あたり銀15匁で貸し出して、徴収した金を橋の修繕に当てようというもの。幕府はこの申し入れを許可し、鴫野橋以外の公儀橋11本は七兵衛が管理することとなった。借り主の負担を減らすため、株を増やす代わりに1株あたりの貸し賃を下げたり、幕府に借りた金を融資してその利息を修繕費に当てたりと、費用捻出のため様々な手段を講じていたようだ。
橋の傷みを抑えるのは修繕費云々ではなく、安全面から考えても必要なことだ。天保3年(1832年)の天神祭では、天満市場の地車を担ぎ出す際に天神橋の一部が落ちるという事故が起き、13名の死者を出している。

〈明治時代~〉


明治時代の天神橋 (大阪市立中央図書館所蔵)所収

明治時代の天神橋 (大阪市立中央図書館所蔵)所収


天神橋(明治2年~昭和6年)

かように維持管理が大変だった木橋は、明治に入って順次鉄橋に架け替えられていく。その動きを加速させたのが、明治18年(1885年)の大洪水だった。
6月初旬から半月にもわたって雨が降り続き、枚方で淀川の堤防は決壊。大阪府東部の河内平野は広範囲で冠水した。排水のため、わざと桜ノ宮あたりの堤防を切るという荒治療を行ったという。
これらの決壊した堤防の修復が終わらないうちに、6月末から再び雨が降り始める。淀川に架かる橋は上流から順に次々と流され、大阪市内はほぼ全域で浸水。橋が壊れたため交通は麻痺し、復旧工事にも大いに支障をきたした。
これを受けて当時の知事・建野郷三は市内の主要な橋18本の鉄橋化を議会に提案。しかし経費の問題からすべてを鉄橋化することはできず、天神橋・天満橋・肥後橋・渡辺橋・木津川橋の5本が先立って鉄橋化されることになった。
天神橋の架け替えには、主にドイツから輸入した建材が用いられた。ただし鉄製の高欄・橋名飾板は川崎造船所で製造された国産品だったという。

〈現在の天神橋〉


Illustration by Hiroki Fujimoto

現在の天神橋は、第一次都市計画事業の一環として架け替えられたものである。松屋町筋線の拡張にあわせて、昭和6年(1931年)に着工、約3年をかけて完成した。当初はコンクリートのアーチ橋を架ける計画だったようだが、地盤の問題などから着工直前に鋼製アーチに変更されている。


天神橋(昭和9年完成)

昭和62年(1987年)にはらせん状のスロープが取り付けられた。また、遣唐使船や天神祭絵巻を描いた陶板が飾られている。


Illustration by Hiroki Fujimoto

〈天神橋の概要〉


橋長:210.70m
幅員:22.00m
形式:アーチ橋(2ヒンジアーチ)
完成:昭和9年
行政区:北区、中央区
河川名:堂島川(旧淀川)、土佐堀川
中之島の東端を通り、大川に架かる橋。

〈参考資料〉

「大阪の橋」 松村博 松籟社 1992年

「八百八橋物語」 松村博 松籟社 1984年

「大阪の橋ものがたり」 伊藤純/橋爪節也/船越幹央/八木滋 創元社 2010年

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