剱岳からの急流を制する、富山・魚津の生命線
富山県滑川市と魚津市の境を流れる早月川。その河口付近に架かる早月橋は、ただの橋ではない。
剱岳を水源とする激流。かつて来日した外国人技術者が、この川を見て呆然と呟いたという。
「これは川ではない、滝だ」
そんな暴れ川に、人々は何度も橋を架けようとした。流され、壊され、それでも諦めなかった。早月橋には、そんな執念の歴史が刻まれている。
江戸時代は「竹竿につかまって渡る」しかなかった
江戸時代、この川を渡るのは命がけだった。
方法はただ一つ。大竹竿につかまり、濁流の中を必死に進む。いわゆる「人渡し」である。足を滑らせれば、そのまま海へ流される。対岸はすぐそこなのに、遠い。
藩主など身分の高い者が通る時だけは、臨時で舟を並べた「舟橋」を仮設した。そのための橋材を保管する小屋まで用意されていたというから、いかに常設の橋が難しかったかが分かる。
万葉集にも詠まれた川──流路が変わり続けた歴史
早月川は、古くは「延槻川(はいつきがわ)」「坪川川」とも呼ばれ、万葉集にもその名が登場する。
だが、この川は気まぐれだ。洪水のたびに流路を変え、地形そのものを書き換えてきた。かつては住吉村と三ケ村を隔てる川だったが、今では滑川市と魚津市の両方に「三ケ」の地名が残る。川が動いた証拠だ。
こうした変動の激しい川に橋を架けるのは、並大抵のことではなかった。
明治期の堤防・橋梁整備、そして現代へ
転機は明治時代。ようやく堤防と橋梁の整備が本格化し、近隣地域をつなぐインフラとして早月橋が姿を現す。
旧北陸街道の延長線上に設けられたこの橋は、沿岸の三ケ地区、魚津市街地、滑川市側を直接結ぶ重要な交通路となった。
そして2003年(平成15年)8月、現在の早月橋が完成。県道富山魚津線(県道1号)の一部として、地域の経済と日常生活を支える大動脈に成長した。
洪水と河川改修の歴史を背負う橋
早月橋は、ただの交通インフラではない。
この橋の存在そのものが、流域の洪水被害と河川改修の歴史を物語っている。何度も暴れ、人々を苦しめた川。それを制御しようと試み続けた人々の意志。
堅牢な構造を持つ現代の早月橋は、その集大成だ。
今も地域を支える「県道1号」の要衝
現在、早月橋周辺は交通量が多い。魚津市街地側から橋を渡れば、歴史ある街道が三ケ地区まで続く。
県道・国道・旧街道の要所として、この橋は今も人流と物流を担い続けている。
かつて「これは川ではない、滝だ」と言われた激流の上に、人々は確かな道を築いた。早月橋はその証だ。
早月橋 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
所在地 | 富山県滑川市三ケ~魚津市三ケ[11][12] |
河川名 | 早月川[11] |
路線名 | 主要地方道 富山魚津線(県道1号)[11][12] |
橋の形式 | 鋼桁橋(現橋)[12] |
材料 | 鋼 |
全長 | 約380m(推定、現橋含む)[12] |
幅員 | 約7.5m(推定) |
完成年 | 2003年8月(現橋)[12] |
歩道 | 両側設置有り |
管理者 | 富山県(立山土木センター)[12] |
備考 | 旧北陸街道延長、過去渡船や舟橋あり[13] |