木曽の桟―断崖に架けられた中山道の命綱

木曽の桟
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三大難所に数えられた「はばかりの桟」

木曽の桟は、長野県木曽郡上松町に残る歴史的な桟道跡である。中山道屈指の難所として知られ、「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠」と並び称される三大難所のひとつに数えられた。

桟(かけはし)とは、断崖絶壁に丸太を差し込み、その上に板を渡して藤蔓などで結わえた簡易な通路のことを指す。別名「波計の桟(はばかりのかけはし)」とも呼ばれ、その名の通り、渡ることを「憚る(はばかる)」ほどの恐ろしさから命名されたといわれている。日本三奇橋にも数えられるこの桟道は、旅人たちにとって最大の試練であった。

木曽の桟から見る川の流れ

平安から続く険路の歴史

木曽の桟の歴史は古く、平安時代の『今昔物語集』にすでにその存在が記されている。応永7年(1400年)から14年(1407年)にかけて木曽川沿いに新道が開かれた際、長さ60間(約109m)の桟道が設けられたと伝えられる。

当初の桟道は、険しい岩の間に丸太と板を組み込み、藤蔓で結わえただけの極めて簡素で危険な構造であった。足を踏み外せば木曽川へ真っ逆さまという状況下で、旅人たちは命がけで桟道を渡った。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼が犬山城主・石川備前守に命じて改良工事を実施している。

焼失から石垣化へ―構造の変遷

正保4年(1647年)、通行人の松明の火により桟道は焼失してしまう。翌慶安元年(1648年)、尾張藩が875両(一説に872両)をかけて、中央部に木橋を含む長さ56間(約102m)の石垣を築き直した。これが現在まで残る石垣の基礎となっている。

その後、寛保元年(1741年)と明治13年(1880年)の二度にわたる大規模な改修を経て、木橋下の空間はすべて石積みとなり、構造は次第に堅牢なものへと変化していった。明治44年(1911年)には国鉄中央線工事のため、わずかに残っていた木橋も撤去され、完全に石垣のみの姿となった。

文人たちが詠んだ恐怖

桟や命をからむ蔦葛(つたかづら)

木曽の桟はその危険性ゆえに、多くの文人墨客に詠まれた。松尾芭蕉は「桟や命をからむ蔦かつら」と詠み、命綱のように蔦や葛に縋る旅人の姿を表現している。正岡子規も「かけはしやあぶない処に山つつじ」と歌に残し、危険な場所に咲く花の対比を詠んだ。

また「恐ろしや木曽のかけぢの丸木橋ふみみるたびに落ちぬべきかな」(空仁)という歌は、桟道を一歩踏むごとに感じる恐怖を生々しく伝えている。長野県歌『信濃の国』の4番にも「木曽の桟かけし世も」として登場し、信州の歴史を象徴する存在として歌い継がれている。

現代に残る歴史の証人

現在、木曽の桟は国道19号のバイパス整備により、旧道の一部に石垣が保存されている。長野県の史跡および日本百名橋の番外として指定され、歴史的価値が認められている。

周辺には赤い鉄骨製の橋「かけはし」や対岸の木造橋「木のかけはし」が架かり、木曽八景のひとつに数えられる景観を形成している。かつて旅人を震え上がらせた難所は、今や歴史的遺産と景観美を兼ね備えた観光スポットとして、多くの人々に当時の面影を伝え続けている。桟温泉も近く、旅の疲れを癒す場所としても親しまれている。

基本情報

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項目内容
名称木曽の桟(きそのかけはし)
別名波計の桟(はばかりのかけはし)
所在地長野県木曽郡上松町上松
指定長野県史跡、日本百名橋番外
歴史応永7-14年(1400-1407年)桟道設置、正保4年(1647年)焼失、
慶安元年(1648年)石垣化、明治44年(1911年)木橋撤去
構造当初は木製桟道、後に石垣(長さ約102m)
関連施設桟温泉、かけはし(赤い橋)、木のかけはし
文学松尾芭蕉、正岡子規などの句碑あり
アクセスJR中央本線上松駅より車で約5分、国道19号沿い
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