天満橋 江戸時代から交通の要衝として賑わってきた「浪華の三大橋」の一つ【大阪市北区】


Illustration by Hiroki Fujimoto

天満橋【大阪市北区】

天神橋難波橋と並ぶ「浪華の三大橋」の一つで、江戸時代から交通の要衝として賑わってきた。八百八橋と言われるほど橋の多い大阪において、たった12本しかない公儀橋(幕府が直接管理する橋)のひとつであり、いかに重要視されていたかが窺える。

中世

天満橋・天神橋のあたりには、中世のころには渡辺橋と呼ばれる橋が架けられており、これが浪華の三大橋の前身だとされる。渡辺橋が断絶してからは、久しく大川に橋が架かっておらず、人々は往来に苦慮したという。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、川を渡る人の数は甚だ多く、とても渡し舟でさばききれるものではなかった。また、船賃を払えない貧しい人にとってはなおのこと、川を渡るのは容易ではなかったという。

再び橋が架けられたのは、豊臣秀吉の時代だ。竣工した年は明確ではないが、前述『日本史』の記載から、大坂本願寺建設より前、天正14年(1586年)以前と考えられている。ただし、この橋が現在の天満橋に近い位置に架けられていたかは定かではない。

江戸時代

江戸時代の天満橋は、谷町筋よりひとつ東の筋に架けられていた(現在は谷町筋に架かっている)。大阪が商都として発展していく中で町の整備は急速に進み、浪華の三大橋はそろって架けられ、寛永11年(1634年)に公儀橋に指定された。
天満橋の南側には東西の町奉行所、北側には営繕関係の役所や倉庫、町与力の屋敷などが立ち並んでいた。また谷町筋の東側(つまり大坂城側)はお役所町だったので、天満橋は多くの役人が往来したことだろう。公儀橋の中でも、特に官の性質が強い橋であったと言えるかもしれない。

天満橋はまた、洪水の被害を多く受けた橋でもある。明治18年(1885年)の大洪水では約30本もの橋が流され、大阪の治水を見直す契機となった。しかし天満橋は、それ以前にも何度となく流されている。記録によれば、天明6年(1786年)から明治18年(1885年)までの100年間で6回。20年と経たずに何かしらの被害を受けていたということになる。
享和2年(1802年)の洪水では、35m以上にわたって落橋。また明治元年(1868年)には上流で落橋した淀橋の流材が天満橋の橋杭に引っかかったため、やむなく杭を切断したという。どんどん流材が重なって天満橋をへし折ってしまう前に、人為的に壊して被害を最小限に食い止めたのだろう。
そもそも、木橋は20年程度しかもたないという。しかし天満橋はおそらく、記録に残らなかった流失例もあるだろうし、火災に巻き込まれたこともあったかもしれない。おそらく20年の寿命を全うすることは少なかったであろう。

天満橋(大阪市立中央図書館所蔵)所収

明治時代~

天満橋
天満橋(大阪市立中央図書館所蔵)所収

そうたびたび壊れていては、掛け替えるのも一苦労だ。そのため明治18年の大洪水以降、大阪の橋は次々鉄橋に架け替えられていく。
天満橋の架け替え工事は、総工費13万8千円。橋長215m、幅員11mと、現在より大きな橋であった。形式は、支間長約52mのホイップルトラス(四連)形式が採用された。
橋脚の基礎にはレンガ積みのウェルが用いられたが、この施工中に6mほど地盤を掘り下げたところ黒色の粘土層に行き当たり、湧水が止まった。そこで人力でさらなる掘削を試みたところ、粘土層を掘り抜いたとたん湧水が勢いよく噴き出したという。これはボイリング現象と呼ばれるもので、液状化した地盤や地下水が流れている地盤で起こりやすい。天満橋付近の地盤は沖積層が厚く、地層が複雑だったために起こったと見られている。幸い死亡事故にはならず、工事は続行。しかし地盤を掘り下げるには大変苦労したようで、固い小砂層などは1日に30cm程度しか掘り進められなかったという。
この時用いられた建材の多くはドイツ製だったが、鉄製の高欄、照明柱、橋名額には国産品が用いられた。
明治44年(1911年)には市電第三期線事業の一環で、天満橋のすぐ上流に市電専用橋が架けられた。この第三期線で市内の市電網はほぼ出来上がり、大正5年(1916年)に完成している。


天満橋(明治21年~昭和7年)

「この世を捨てていく身には、聞くも恐ろし天満橋」
近松門左衛門の『心中天の網島』で、天満橋はこのように描かれる。天満と天魔をかけているのである。
物語の主人公は、天満で紙屋を営む治兵衛と、新地の遊女・小春。心中を決意した二人は新地を抜け出し、慣れ親しんだ橋をいくつも渡りながら、死に場所を求めて歩いていく。
「誰と伏見の下り船着かぬ内にと道急ぐ。この世を捨てていく身には、聞くも恐ろし天満橋。淀と大和の二川を、一つ流れの大川や水と魚とは連れて行く。『我も小春と二人連れ一つ刃の三瀬川。手向けの水に受けたやな。何か嘆かん。この世でこそは添わずとも、未来はいふに及ばず今度の今度ずっと今度のその先の世までも夫婦ぞや』……」

現在の天満橋


Illustration by Hiroki Fujimoto

現在の天満橋は、第一次都市計画事業によって昭和10年(1935年)に架け替えられたものである。
橋長は151m、幅員は22m。三径間のゲルバー式鋼鈑桁で、支間長は44.5、61、44.5m。この形式の橋としては大阪で最大規模を誇る。また市電のルートだったため、橋中央部に市電車輌の大きな荷重がかかることから、中央2本の主桁はダブルウェブで構成された。
桁高の変化と縦横曲線の釣り合いが良く、設計担当者曰く「のびのびとした、鳥が翼を広げたような形」の美しい橋である。
さらに昭和45年(1970年)には、高架橋が増設される。天満橋は前後の道路に比べて幅員が狭かったこと、また南詰めに大きな交差点があることから、渋滞しやすいことがネックだった。しかし橋の近くには地下鉄や京阪電車のトンネル、地下連絡道があり、橋の幅を広げることは難しい。そこでちょうど橋を2本重ねるように、高架橋が増設されることになった。市電の荷重に耐えられるよう作られた部分が、今度は上に重なる橋の重みを支えることになったわけである。
構造形としては鋼床版を用いた二室一箱形の断面を持ち、鋼桁と鋼橋脚を剛結した立体ラーメン構造となっている。


Illustration by Hiroki Fujimoto

〈天満橋概要〉

橋長:151.00m
幅員:上流側9.50m 下流側9.50m
形式:桁橋(ゲルバー桁)
完成:昭和10年
行政区:北区、中央区
河川名:大川(旧淀川)
地下鉄谷町線天満橋駅・京阪本線天満橋駅からすぐのところにある、大川に架かる橋である。

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