兵庫県芦屋市を悠々と流れる芦屋川。その上に架かる業平橋は、単なる交通インフラではない。
平安時代の色男として名高い在原業平の名を冠したこの橋には、千年を超える歴史のロマンと、近代土木技術の粋が織り交ぜられている。
六歌仙の面影を宿す橋の名前
「昔、男ありけり」で始まる『伊勢物語』の主人公とされる在原業平。この平安初期の歌人こそが、業平橋の名前の由来である。
業平はただの歌人ではない。祖父は平城天皇、母は桓武天皇の皇女という皇族の血を引く阿保親王の第五皇子で、いわば平安時代のプリンスだった。
興味深いのは、『伊勢物語』第八十七段「蘆屋の里」に記された一節である。
そこには業平が「津の国菟原の郡、芦屋の里」に別荘を構えていたという記述がある。
つまり芦屋は、平安時代からすでに都の貴公子たちが愛した高級別荘地だったのだ。
現在の芦屋が高級住宅地として知られるのも、実は千年前からの伝統なのである。
大正ロマンが生んだ現代の業平橋
現在我々が目にする業平橋は、1925年(大正14年)に完成した二代目である。
初代は1917年に架けられた木造橋だったが、わずか8年でその役目を終えた。なぜこれほど短期間で架け替えられたのか。
答えは急速な近代化にある。
江戸時代から芦屋付近では西国街道が「本街道」と「浜街道」に分かれて並走していたが、明治期になると大阪と神戸を結ぶ大動脈「阪神国道」として生まれ変わった。
交通量の激増に木造橋では対応しきれなくなったのである。
二代目業平橋の設計には、当時最新の技術が投入された。鉄筋コンクリートT桁橋という構造形式は、大正期としては先進的な選択だった。
全長33.4メートル、幅員27.3メートルという堂々たる規模は、当時の技術者たちの意気込みを物語っている。
路面電車が走った橋上の風景
二代目業平橋には、現在では想像もつかない光景があった。
橋の中央部には路面電車の軌道が敷かれ、橋上には「芦屋川停留所」まで設けられていたのである。
この路面電車は阪神国道電軌(後の阪神電気鉄道阪神国道線)で、大阪と神戸を結ぶ重要な交通手段だった。
橋を電車がガタゴト音を立てて通過し、停留所では和装の女性や背広姿の男性が乗り降りする――そんな大正ロマンあふれる風景が、業平橋では日常だったのである。
この路面電車は1974年まで運行され、半世紀にわたって関西の交通を支えた。
廃止から50年が過ぎた今、その痕跡を橋上に見つけることは難しいが、業平橋の歴史を語る上で欠かせない要素である。
土木遺産として評価される技術的価値

業平橋は単に古いだけの橋ではない。土木学会から「選奨土木遺産」に認定されているように、技術的・文化的価値の高い構造物なのである。
大正期の鉄筋コンクリート技術は、現在ほど成熟していなかった。それにもかかわらず、業平橋は100年近くにわたって交通荷重に耐え続けている。
これは当時の設計者と施工者の技術力の高さを証明している。
また、橋の意匠も注目に値する。装飾を排したシンプルなデザインでありながら、どこか品格を感じさせる外観は、
大正期のモダニズム建築の影響を受けているとも考えられる。機能美と歴史性を兼ね備えた稀有な存在といえよう。
現在も息づく東西交通の要衝

業平橋は過去の遺物ではない。国道2号の一部として、現在も阪神間の東西交通を支える重要な役割を担っている。
朝夕の通勤ラッシュ時には多くの車両が行き交い、歩行者や自転車も頻繁に通行する現役の社会インフラである。
平安時代の雅な歌人の名を冠し、大正ロマンの薫りを残しながら、21世紀の現代社会を支え続ける業平橋。
この橋を渡るとき、千年を超える時の流れと、それぞれの時代を生きた人々の営みに思いを馳せてみてはいかがだろうか。
歴史と現代が交差する特別な場所として、業平橋は今日も芦屋川の上に静かに佇んでいる。

基本スペック
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 橋名 | 業平橋(なりひらばし) |
| 所在地 | 兵庫県芦屋市 |
| 交差物件 | 芦屋川 |
| 路線名 | 国道2号 |
| 用途 | 道路橋 |
| 竣工年 | 1925年(大正14年) |
| 構造形式 | 鉄筋コンクリートT桁橋 |
| 全長 | 33.4 m |
| 幅員 | 27.3 m |
| 座標 | 北緯34度43分53.4秒 東経135度18分09.3秒 |
| 文化財指定 | 土木学会選奨土木遺産 |


