田蓑橋 蛸の松の景観で知られた、堂島五橋の一つ【大阪市北区・福島区】

田蓑橋【大阪市北区・福島区】

〈江戸時代〉

元禄のころに堂島は開発され、それに伴って堂島川には五つの橋が架けられた。これらは堂島五橋と呼ばれ、田蓑橋もその一つである(ちなみにあとの四つは大江橋、渡辺橋、玉江橋、船津橋)。
堂島五橋は、歴史ある橋や、歌枕として知られる地名など、由緒あるものにちなんだ名が付けられており、田蓑橋は「田蓑島」に由来する。佃村(西淀川区佃)にあったとする説が有力だが、ほかにも浦江大仁(福島区鷺洲)だとか津守(西成区津守町)だとか諸説あって、はっきりしない。
田蓑島は禊の場所で、古来より多くの歌に詠まれてきた。

雨による田蓑の島をけふ行けばなには隠れぬ物にぞ有ける(『古今集』紀貫之)

田蓑橋の周囲には蔵屋敷が建ち並んでおり、それぞれの屋敷は門前に松を植えていた。屋敷の白壁と水面に映る松は、道行く人々の目を楽しませていたという。とりわけ立派だったのが広島藩主・福島正則が植えた黒松で、その枝ぶりはまるでタコが泳いでいるようだと、「蛸の松」と呼ばれていたという。田蓑橋と玉江橋のほぼ真ん中に位置しており、中之島の名所として知られていた。

〈明治以降)

田蓑橋も例によって、明治18年(1885年)の大洪水で流される。その後すぐに架け直されたが、当時はまだ木橋のままだった。
鉄橋化されたのは、昭和初期の第一次都市計画事業において。大正13年(1924年)に行われた大江橋のデザインコンペで、3位に入賞した作品を参考にして設計された。「仏国中世紀ロマネスク敷に影響せられたる近代式」と評されたデザインは優美なアーチ橋で、これをもとに建設された田蓑橋はたいそう美しいものであったという。
しかし地盤沈下の影響で、昭和39年(1964年)に架け替えられることとなる。


昭和初期の中之島

〈現在〉

架け替えられた田蓑橋はごくシンプルな桁橋で、途中に設けられたバルコニーが、わずかながらに往年の姿をうかがわせる。
そして橋の北詰には、あの「蛸の松」が佇んでいる。といっても本物は明治末期に枯れてしまったから、松自体は別のものだ。
広島藩主が植えた「蛸の松」であるが、その後蔵屋敷の敷地が変わったのか、久留米藩蔵屋敷のシンボルとして知られるようになる。蔵屋敷がなくなった後も松は残り、今度は跡地に建てられた大阪師範学校附属演習小学校(現・大阪教育大学附属天王寺小学校)のシンボルとして親しまれるようになった。この松にちなみ、同校の同窓会は名前を「雛松会」というそうだ。

そうして平成16年(2004年)、「雛松会」がかつての風趣を偲んで「蛸の松」を再現する。かつての場所とは異なるものの、道行く人々の目を楽しませているのは今も変わらない。

〈田蓑橋概要〉

橋長:82.3m
幅員:14.7m
形式:桁橋
完成:昭和39年
行政区:北区、福島区
河川名:堂島川
京阪中之島線渡辺橋駅より西へ約5分。

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